2015年12月3日木曜日

偶々1201



   偶 々


玻璃窗が 震へ北風 兆したり
鐵が降る 降り續ひてゐる 冬銀河
くだら野を 影の法師と 道連れる
中つ世が しのびて來たる 日の弱り
寒月は 墳のうへをも 照らしけり





















2015年11月27日金曜日

偶 々1127



 偶 々

片崗は 柿葉あかりの 續くかな
梔の 實に日のいろの 殘りけり
ゆずの香の ひそんでをりぬ つたひみち
しぐるるや 定家机の 胡桃つや
どのいへも 柚子採る梯 ばかりかな

しぐれゐて 土におさまる 朽葉かな
さよしぐれ 土塀しづかに くずれけり
北窗を したたかうてり ゆふしぐれ
寒月に 鈴懸の果の 殘りなく
しぐれやみ 浮かんで來たる 庭の靑

2015年11月23日月曜日

藤原定家筆「小倉色紙」の古筆極書


極書が出てきた。極書は、平安から室町にかけての和歌、漢詩、経典、手紙、記録類古筆の、真筆を保証する鑑定書のことをいう。この極書は、縦13㌢横3㌢の大きさで、「京極黄門定家卿 みせばなや」と表書きされ、裏に「小倉類色紙 甲申」とあり、台帳への割り印がある。

 意味するところは、江戸期の藤本了因という実在した古筆鑑定家が、「この色紙は、藤原定家の筆になる、小倉百人一首のうちの、見せばやな雄島(をじま)の海人(あま)の袖だにも濡れにぞ濡れし色は変はらず 殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)」の保証書、ということを指している。

 殷富門院大輔は1130-1200ごろの女流歌人。定家と交流があった。女房三十六歌仙の一人。小倉百人一首90番目に登場する。千首大輔の異称がある。正直極書をはじめてみた。鑑定された、定家筆の殷富門院大輔「小倉色紙」はどこにいってしまったのだろうか。

 「明月記」に記載があるように、小倉色紙は、嵯峨中院障子の色紙形に,天智天皇以下 100人の和歌を書いた古今の歌人の百首を選び、障子に貼り込んだものという。今日、地模様の無いものと有るものと二組があるという。武野紹鴎が室町時代に茶会に用い、初めて茶席の掛け物とされ、江戸時代に、古筆はブームになった。

 翻って、鑑定書がついていたはずの、殷富門院大輔の歌を定家が書いた小倉色紙はどこにいったのだろう。多くは美術館が所蔵しているが、梓沢要「百枚の定家」によると、100首のうち49首は所在がわからない。一度も、記録に出てきていないのだ。定家はいったい、どこにいったのだ。

2015年11月22日日曜日

嵐雪 一葉ちる 咄一葉ちる 風のうへ


百万坊旨原編集の服部嵐雪句集「玄峰集」(寛延2)が出てきた。江戸中期の写本。

 一葉ちる 咄一葉ちる 風のうへ

 句集最後の辞世、に目が留まる。
 最初に、「風」という筆致が力強く、ひきつけられた。強い知性を感じた。次に、江戸の俳人が、風のうへ、という表現をしていることが新鮮だった。風の「うへ」なのだ。いったい、風のうへとは、なんのことだ。さらに、「咄(とつ)」とはなんだ、と思った。禅語で、「喝」と似ている意味だそうだが、よくわからない。写本は「吐」と誤植か。最後に、「一葉ちる」のリフレインの効果を感じた。

「…此初の一葉ちる咄とは世をはぜぬけたる所にて是よりは皆風塵を出し物なりといふ事とかや或禅師の曰何事も道に最ぬけざればいで大事の場合に臨みて心おくるゝ物なり嵐雪いま此の所に及びて一句みだれず殊に咄の一字宗學たけたるものにても容易に出ぬ事なりと此真跡を見られたる折深く賞賛してやまざりき」

 わたくしなど及びもつかぬ“背後”があるのが江戸俳諧のようだ。イメージ、象徴、モチーフの宝庫の一端を垣間見た。

2015年11月8日日曜日

偶々1107


水戸市田野にて

偶々

冬立ちて 水は光に 烟りけり
暮れてなほ 落いてふには 日の名殘り
小春立ち 霞むうらんの 廢鐄山(やま)の村
日の丸辨當の 冷たさもそれ 小春かな
いきなりに 木の實時知る ものの音

小春空 歸去來の子を 慰めり
たけ狩りの 生藥師はやまの 話を拾ふ
石組みは 秋の日を吸ひ 溫きまま
龍村に 黄柚子つつむで もたせけり
蹲踞の 菊は菊賣が 投げていつた

花鋏で切る 野の紫苑それは 儀式別れの
ホロヴイツツさん 別れを知つているんですね 雨の秋の
ひとが主役ではないと 北アルプスに 冬來たり

2015年11月7日土曜日

子規の肉筆


    このほど、子規の肉筆らしきものが出てきた。「子規全集」未収だ。肉筆と出合うと、眠気が覚めて、文学史上のひとびとが、リアリティあるものとして迫ってくる。俄然、その文学者のありようを調べたくなる。真筆か偽筆かを調べる過程はとてもたのしく、さらに、子規の古俳諧への博覧強記を知ることになったのが収穫だ。


 藤川忠治の「正岡子規」(昭和8)によると、子規は、明治28年の内藤鳴雪への手紙の中で、秀逸と感じた江戸俳諧を抜き出しているそうだ。蕪村、白雄、几董、去来が圧倒的に多い。丈艸、許六、史考、尚白が続く。子規が掲出した古俳人の句のうち、わたくし的には、几董が三番目に位置していることに注目している。几董は忘れ去られようとしているからだ。


   俳句の革新者と呼ばれているが、ここに少し誤解があるようだ。ぽっと出てきたあたらしい俳句の感性、なんてものではない。東京帝国大学の学生のころから、古俳諧に取り組んでおり、膨大な考証的研究を積み重ねていた事実を後人はほとんど知らない。ウィキペディアでも言及がない。活字ではない。和本を次々読んでは抜き出していった。「分類俳句大観」の大著はそうして出来た。蕪村を賞賛評価できたのも、その積み重ねからだ。それゆえ、たとえば碧の俳句史への無学ぶりを不安がったというのもよく理解できる。古俳諧の収集研究の先覚なのだ。書生俳句なんてとんでもない。おそろしいほど博覧強記。その姿勢と努力に敬意を払わねばならない。
 
 季語ごとにわかれている「分類俳句大観」を読んでいると、やはり、出来に差異があり、きらきら輝くつくりてが浮かび上がってくる。幸田露伴の「評釈炭俵」、あるいは岡野知十や加藤郁乎をテキストに、古俳諧を読み解こうとしてきたが、子規の手法を鑑みたい。古俳諧に触れ、学ぶほど、きっと古い美意識を知ることができる。

2015年11月5日木曜日

東郷青児の装丁



薄汚れた函のなかの、数十冊の古本のなかで、
東郷青児の装丁、挿絵だけがきらきらと光っていた。
昭和21年、コバルト社の、
質のわるい紙の、うすい冊子だった。
東郷はおびただしく雑誌、書籍、広告の挿絵を描いていたにちがいない。
その仕事を確認したい欲求に駆られている。

谷川俊太郎「62のソネット」を掘り出す。


35年前の学校帰りに、炭鉱町の
駅前のこじんまりした書店で
角川文庫の谷川俊太郎詩集を購入したのが
詩の世界を知るきっかけだった。

今日は、「二十億光年の孤独」に継ぐ
第二詩集「62のソネット」(昭和28)に出合った。
哲学者谷川徹三を父にもつ詩人はこのとき、わずか22歳だった。

わたしは、わたしが好きだった本に、もういちど出合いたかったのだろうか。
そのために古本屋をしているんだろうか。
この高まりはいったいなんだろう。

きょうは、たくさんの書物と出合った。
そして、それらの書物について「書きたい」「書きたい」とだけ、感じた。
わたくしは、書きたいのだ。
それだけなのだ、ということを思った。





2015年11月1日日曜日

ふらんす堂なづな集


ふらんす堂なづな集(石田郷子選)でこのほど、特選をいただきました。
他者の句を、読み込めるエネルギー、評にするエネルギーに、ただただ敬意です。

2015年10月17日土曜日

偶 々 1017


信州松本と上田の、あひだの
標高2千㍍弱の武石峠から、東に眺める、からまつの森はいま、
ものすごい黄金色の波、だと思ふ。
山裾がぜんぶ、からまつの黄葉。
丸子から1時間。
松本からも延々と、1時間。
それでも、みてほしい。

  偶 々
   
飽くるなく 茜ほりけり 生薬師
川底浚ふ 盥ふるびて 水の秋
山の奥 熟柿しづかに 眺めゐる
錆色の あきのひかりの なかにをり 
青北風や きつといつかと 四、五十年
雨の日も 蔦のあかりの 山家かな

                                      (写真はショウガ)

2015年10月8日木曜日

サラ・ムーン


昭和49年。
いまから40年前の雑誌
「nonno」が出てきた。
写真家サラ・ムーンの
特集頁があった。

モスグリーンの
フォルクスワーゲンに
乗っていたことを知る。



標高6百㍍の信州松本はもう、
冬がすぐそばに来てゐますね。

真冬の城山公園へのぼる坂の途中からの夜景、
五月のアルプス公園の茶屋からみる安曇野は、
絶景ですね。

そんな素敵な信州を捨てた理由、といふよりも、
信州の厳しさに、わたくしは放擲されたのだらうと。
なにしろ、此の地の冬は、野良は生存できません。
天にいちばんちかいので、ひとびとも倫理的ですから。

里山辺で採れる、信州林檎種秋映が、皮が厚ひのは、
寒暖の差がはげしひゆへでせうか。
そして、とてもあまひ。

  偶 々

きつといつか と四、五十年も あわだちさう
碓井越え かなわぬままの あわだちさう
生姜きざむ 素蕎麦に入れむ 秋気澄む   (新そば)
十月や のんすとつぷで 城下くだる     (松本沢村から、城まで、ペダルをこがずにゆく快感)
ぶだうみち いちもくさんに 夕餉かな     (松本里山辺の葡萄畑の幸福)

猫語ならぬ かぴぱら語あるや 秋昼寝   (俳人の御写真ながめつ)
銀杏散る なか学生純愛 あふる構内    (国立大学の才女は真面目だ)
古製麺機 買ひがすとんばしゅらあるの 夢想かな(粉というメタファー)
湯のあとを ははそもみじの こみちかな  (常磐湯本御幸山にて)
よいだらう ひとり秋鮎 焼く午後も    

白湯うく 昨夜の相場 みだれたり      (澄江堂句集を読む)
錆色の あきのひかりの なかにをり    
いちにちじう 茜ほりけり 生薬師      (茜根は漢方)
寒月や 真鍮集めの みちくらし       (金属くずは資源。されどまずし)
さくらもみじ ちりはてるなか 結審す    (司法記者のころのできごと)

2015年10月3日土曜日

紫蘇の梅干をいただく




紫蘇の梅干をいただく。

以前、買取したお宅で。

一瓶。

アルマイトの弁当箱を取り出して、

白いご飯のうえに二つのせて、

3時間後に食べる。

2015年9月8日火曜日

俳句大学掲載エッセイ「鬼貫、万太郎、そして龍雨」

 図説俳句大歳時記」(角川書店)に鬼貫の句を見つけて、万太郎とそっくりだ、と素朴に感じた。 

   秋風の 吹きわたりけり 人の顔   鬼貫 (明和5・鬼貫句集)
   あきかぜの ふきぬけゆくや 人の中 万太郎(昭和5、草の丈)

 二つの句を比べてみると、「野径で遊ぶ」という詞書がある上島鬼貫の江戸俳諧は、潁原退蔵が昭和11年ごろに、、鬼貫の名句のひとつ、としている(「名句評釈」)。少し諧謔がある野の風景だ。一方の万太郎の句のイメージは、銀座の通りの中の寂しさだ。映像で頻繁に用いられているほど元型的だ。

 実際のところ、そっくりだ、というのが唯一の事実だ。万太郎が鬼貫をどの程度知っていたかはわからないけれど、「古句十句」という短文もあるから、古俳諧には親しんでいた。鬼貫を発展解消させて生まれたかのような万太郎の句はやはり、ここちよい名句だ。

 私は増田龍雨の直筆短冊を大量に入手したので、その縁を生かそうと、龍雨そのひとと作品を調べているところだが、年少の万太郎が師であり、雪中庵宗匠十四世を継いで途絶えた年長の龍雨が弟子という関係だった。「増田龍雨句集」序(昭和5)で、万太郎は次のように書き、祝った。

 ……白状すれば、わたしは、屡々龍雨君をわたしの作の中につかつてゐる。
 普通に読むと、芝居の登場人物としてモデルにした、という意味になるが、句のモデルにもしたし、龍雨の句をいただいたこともある、という意味にも取れる。万太郎は、龍雨に濃厚だった江戸のにおいを評価していた(このあたりは、加藤郁乎がくわしい)。当時、万太郎自身がが龍雨の句を楽しんだ、とあっけらかんと書くぐらいなんだから、当節の、まねるだのぬすむだの著作権侵害だの騒ぎ立てるものではないのかもしれない。

 先人の句を手本として眺めたときに、そのバリエーションがあとからあとから沸いてくるのを、書き留めるのはとてもたのしいものであるし、万太郎の名句は、鬼貫の一句を目にして、自分のセンスの中で、置換せざるをえなかったのかもしれないバリエーション、と思うことにした。

2015年9月6日日曜日

物語を掘り起す

 「物語」はどんなひとにも、どんな風景にも、どんなモノにも隠されている。斜陽な地方新聞社で、取材の仕事を続けてきた私には、それがよくわかる。めだたなくても地味でも、すべてに「物語」がある。謙虚になって、畏敬をもって聞き込んでいけば、うつくしく、不思議な物語が浮上してくるのだ。「物語」は必ずしも書物や言葉として存在しているわけではなく、集団の記憶として、土地の印象として、そして象徴として、時には、地層の鉱脈の中に、残されているのだ。

 だから、歩き回り、聞いて回り、文献を漁りつつ、それら「物語」の断片を拾い集め、新聞の上で形にしてきた。うずもれた物語を探しだして、真実にたどり着くと、「物語」が微笑んでくれた。「よく、ここがわかりましたね」と微笑んでくれた。シンクロニシティが作用することもたびたびあった。それはデスクも編集長も広告営業担当も知らない私だけの秘密と充実だった。「物語を掘り起こす」。それは、私がこの世でうまくいった唯一のことかもしれない。

 老いがちかづいている私は今、「奥常陸」で、出自を、出自の「物語」を探している。那珂の北方は、今も古代と中世がひそやかに息づいている。というよりは、古代と中世と近世と近代と現代が平行して過ぎている。なぜ、私の名刺を見て、「佐竹」とあるだけで、奥常陸の人々は、そんななつかしいものに出会った表情をするのか。青二才なのに、親戚でもないのに、私をしみじみと見て、遠くの過去を見やるような目をするのか。そのようななつかしさ、無意識の古層の根にある、「奥常陸の物語」を掘り起こしたい。俳句で表現したい。そうすれば、大祖(おほほや)と出会うことができるだろう。長い漂白にピリオドを打つことになるだろう。

 繰り返す。「物語」はひとにも、風景にも、モノにも隠されている。、今の私の仕事は、「俳句によって、隠れた物語を掘り起こす」ことだ。

2015年9月5日土曜日

東北行偶々905


    東北行偶々(栗駒から秋田へ)

餘執あらむ判官森は冷へゐたり
栗駒の秋に遮那王眠りけり
秋天をつきぬけ無念八百年
夷人、号ヲ立テ太郎ト曰フ、夏果つ 
東鑑に古き血みへたり秋神楽  
此処よりはばてれんの道鯖の雲    

茜葛当薬竜胆籠あふる     
鉈砥いで黍の嵐の中にをり
實石榴も幹も忽忽古家かな 
走り蕎麦強き山葵もありぬべし

鑿砥いで砥いで無心にいたりけり
秋暮れてトロツコ吸ひ込む楢林(小川郷にて)
風船葛しほれてもなほ透ゐてをり
あいくるしいもうとウラン春の雲
銀漢や阿頼耶識はすぐそばに












2015年8月25日火曜日

栗駒の佐竹氏3

 秋田久保田藩佐竹氏にとって、湯沢の南東、けわしい栗駒山系をこえた栗駒に、20軒もの佐竹一族が永らえていることは、謎のひとつである。いくつかの論があって、確定的なことはなにもない。しかし、江原忠昭「中世東国大名常陸国佐竹氏」(昭和45)によると、次のような記述があり、愕然とした。それは栗駒の佐竹氏2に継ぐ展開だったのだ。

 …佐竹秀義を総領とした佐竹一族は、奥州征伐戦では、常陸国守護職八田知家に属し、名誉回復を計って軍功があった。のちの「佐竹義篤譲状」には、『代々、相伝御下知……嫡男……永代所令譲与也』とされた所領のうち、陸奥国中野村、同小堤村、佐渡南方、江名村、絹谷村があり、これがこのときの恩賞功労と見られる。もちろんもっとも大きな恩賞は、常陸奥七郡がそっくり返されたことである。…

 中野村とは、栗駒中野のことではなかろうか。このあと、佐竹秀義は美濃国にも所領を得ており、その後、美濃佐竹氏となった。もちろん家紋は同じである。鎌倉初頭に、常陸国から一族、一門が移り住んで、永らえてきたということではなかろうか。したがって、私自身は秋田佐竹氏よりはるか400年前に、常陸国を離れた一族だったかもしれない。
 さらに資料を読み込んで、接点を見つけよう。

2015年8月23日日曜日

栗駒と佐竹氏2

 古くから栗駒に20軒ほどの佐竹の一族があることは、秋田佐竹藩の歴史では、謎のひとつとされているのだが、はたと思いついた。近世初頭の佐竹氏の動きにとらわれるまえに、栗駒と佐竹氏の接点は、もっと以前にあるのではないかと。探してみる。


 1189年夏の頼朝の藤原氏壊滅をねらった「奥州征伐」が最初らしい。このとき、常陸国の佐竹秀義は、頼朝に従って平泉まで進軍した。頼朝は、奥州征伐に、「かつて義経に従っていた者たち」を動員した。そこに佐竹秀義も含まれていた。


 1185年に、義経は鎌倉へ入る事を許されなかったことから、頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放ち、それに呼応していた佐竹秀義は、頼朝の攻撃にさらされ、金砂山の攻防で頼朝に敗れていた。参加しなければ、所領没収が決まっていた。義経はすでに、藤原泰衡の騙し打ちで自害に追い込まれている。


 接点は、平泉陥落の直前、8月20日、栗原・三迫の要害を落として、津久毛橋に至ったあたり。頼朝と藤原氏との戦闘のこの場所が、栗駒だった。


 栗駒中野の20軒の佐竹一族だが、東南へ数キロのところに、平泉で自害した義経の胴塚がある。五輪塔と石碑がある。地元では判官森、弁慶森と呼ばれている。「奥羽観蹟聞老誌」「封内風土記」「平泉雑記」にくわしいが、栗駒山麓には北行伝説も含めて義経伝説がおびただしくあるそうだ。


 佐竹氏は、奥州で、義経を庇護した藤原氏を、同じ源氏の頼朝と、滅ぼす手伝いをしたのだ。佐竹の一軍は、栗駒で合戦し、通過しているということだ。「吾妻鏡」や、佐竹秀義の12人の子についてなど、もう少し奥州征伐の資料を読まねば。

2015年8月22日土曜日

栗駒の佐竹氏



  宮城県栗駒に佐竹氏が20軒住んでいることは、秋田佐竹氏にとって、謎のひとつだという。いくつかの論があり、それは解明されているわけではない。この伊達藩領に、江戸初期に移り住んできたというのが、栗駒に生きる人々の定説になっているようだが、文書が残っているわけではなく、単に言い伝えに過ぎない。きちんと調べていることもない。400年にわたる帰農によってすっかり忘却に沈んでいるのだろうか。

  栗駒中野には、「中野神楽」という民俗芸能があるが、演じられる衣裳のうち、扇は、五本骨に赤い日の丸。これは鎌倉にさかのぼる佐竹の軍旗の家紋であることは特筆すべきだ。鎌倉時代にさかのぼるの佐竹氏である。

 栗駒に住む佐竹氏子孫の共通した伝承は「常陸国から秋田へ移るときに、途中で脱落した先祖が住み着いた場所」。実によく統制されていた一族にこのようなことは起こりずらい。山本秋広「佐竹秋田に遷さる」を読めば、佐竹の一体感がわかる。この伝承そのものに不自然さを感じる。

  基本に戻れば、江戸時代に、秋田藩領で、佐竹を名乗ることができたのは、秋田佐竹の東西南北の四家と岩崎分家、少輔家の当主6人だけである。嫡子以外は一門の養子、(たとえば梅津、塩谷などの)になっていったからだ。一門の一部がどのような経緯で、伊達領に流れたのか、ということを証すものはなにもない。一門(血族)のうちのだれかが、栗駒に移ってから、本来の姓である佐竹と改めたのなら、理解できる。

  秋田市佐竹史料館は、考えられることを、いくつか指摘している。

①秋田佐竹藩と縁戚にあった仙台伊達藩との人事交流は江戸初期から活発であり、秋田藩に伊達氏が家臣として入っていたように、伊達藩にも佐竹氏が配下としてあったことが考えらていること。ただし、伊達藩における佐竹のありかたは文書が存在しているわけではないし、今後の探索が待たれる。
②江戸中期の、少輔家と南家、岩崎分家の後継争いによって、湯沢から峠を越えて逃避した一団の存在。しかし、佐竹の血のつながりはつよく、秋田に移ってからは、身内の争いは少なく、考えにくい。岩崎藩と栗駒岩ヶ崎の符号。
③伊達藩領に移り住んできた脱藩武士町民農民が、「佐竹領」の出身として、佐竹と名乗った。
④江戸初期のきりしたん迫害によって追放された一門の一部が、栗駒に移り、改めて、佐竹と名乗った。湯沢のある祭りは、きりしたん迫害を受け、改宗を拒否した佐竹一門の一部が家再興のために祈願したことが端緒だったというが、これもヒントになる。湯沢―栗駒には、特殊な人々が往来した古道がある。このことは、湯沢地方と密接につながっていた理由として、栗駒に住む子孫に伝えられているようだ。切支丹街道とも呼ばれるそうだ。
⑤山形県上山と同様に、明治以降にどっと増えた、ご存知の理由。

  秋田藩内にいればよいものを、なぜ、移らねばならなかったのか、それがわからないからもどかしい。むしろ、何も関係がなかった、とする結論のほうが自然だ。佐竹という信用価値、ブランド価値を利用した人々だったのかもしれない。文書が出てくる可能性はないだろう。いずれにしても、明瞭なルーツをたどれないということは、自分の血を証しできない不幸だと思う。

  個人としては、常陸、秋田、栗駒山ろくへの親和は深い。栗駒岩ヶ崎の曹洞宗黄金寺の住職が話していたが、栗駒には金の名がついた地名が目立つ。砂金が採れたし、砂鉄も採れた。峠を越えればわずか50キロのところに、佐竹藩が開発した院内銀山がある。常陸国もまた砂金をなした。金砂郷など金を産する地名はあちこちにある。栗駒中野にも古い炉跡が発見されたんだそうだ。

  藤田東湖の父、幽谷は、常陸太田の農民だったが、自らの出自を中世常陸佐竹氏につながる武士と史料を探し出して、強引に結びつけたことはよく知られている。それほど出自は重要だ。だから、私もそれぐらいの強引さは必要だろう。関連史料をさがし、点と点を結ぶことをしなければならない。もどかしさ、いらだちが解消されるまで。
 
  私のルーツは、宮城県栗駒である。さかのぼれば秋田である。さらにさかのぼれば常陸太田である。といわれている。しかし、それが実は、判然としない。佐竹会などに呼ばれることもない。佐竹北家は伸びているが、南、西は東京に移っていったんだという。秋田の土地を捨ててしまったかもしれぬ。それでも、各家には系図があるのだ。


 系図をみつけなければならぬ。いずれにしても、家を再興しなければならぬ。土地に根を張り、業を興し、子孫を増やす。そのような志を持たねばならぬ。

2015年8月15日土曜日

偶々815


水戸市木葉下にて早朝。

 偶 々
萩の葉の諧調深し驟雨来
まきへはぎずつと急ひでゐたから見へなかつた
萩むらを抜けて青空頂戴す
萩叢に人音といふものわずらはし
ひかへめといふゆかしといふ夏の萩

黄昏の萩原を走る記者子〆切ちかし
死せる訳は浮世ばなれの蛍かな
陸稲の甘きにほひにしづむ丘
盂蘭盆会異人が呼べる仕事多し 
蘭学者のいへかたずけてゐる盂蘭盆会(新屋敷にて)

2015年7月29日水曜日

偶々729




酷暑とて傍に一歩もうごかざるひたぶるきみのゐてのびゆけるわれ

幕末の蘭学者の蔵書を二十万で買ふただ学問へのひたむきさのりうつれ私に

大切なひとをうしなつたんだと声に出し叫んでよいか夏の水の迅さのなかで

滴る汗は三億年後に琥珀となるか詩人が言つたんだきつとさうなるまばゆき夏の

ひふみよとうたに鎮まることありて儀式のやうにひとり祝詞書く

ひとふさのぶだうのむらさきの諧調ここちよくみれるゆふべもありて

むらさきの木槿のはなはしづかにさけりひとかへる薄明のときにも

そばやめざしむらみちをゆくそばよりもあなたからふくかぜをしりたい

灼熱の鉄工所こそふさわしき場所か山脈に眠れる金属類が親しみてあり






2015年7月20日月曜日

偶々720



  偶 々
唐黍や飛行少年ロケツト噴射設計圖
廻廊のむこふにかすかかなかなとゐま
唐黍やいつまでもロケツト描いてゐる
ぼんぼん松本ぼんぼんぼん北松本驛で待つてゐるよ
夏の雲お城までノンストツプでかけをりる
          (松本の夏の思ひ出)

2015年7月10日金曜日

偶々709


偶 々
銀漢やさつきまであらやしきが触れてをり
むらは梅雨に沈み麹しづかに酵す
かぼちやにてとうきびもにてゆふあかね
はるかなた過去生がふと梅雨夕焼
余執あれどきつと七代後の夏によみがへる

千年の夏社八幡太郎が覡(げき)の跡
夏常陸八幡背負ふ太郎ゆく
銀漢や山上まで昇りし鮑の神(金砂山)
為朝が笹もて走る童かな
(奥常陸で笹の葉は魔よけとされる)
梅雨寒のかまくら悪口流罪とす



2015年7月3日金曜日

偶々702


夏よ昔鎌倉武士が国を守つたんだ知つてゐるか
しちぐあつのあさなつたうたまごごはんにはい
やまかげに天隕隠る湯殿垢離
太古よりの砂鉄の濱の朱夏かな(麻生より製鉄所ながめつ)
やまぼうし一点明し古座敷(招かれて)
蓼の雨土塀もくづるおもさかな

2015年6月28日日曜日

偶々628



夏よ鎌倉武士は本気で国を守つたんだ
異国調伏異国調伏祈祷の夏来たり
岩清水八幡宮般若心経三十万巻の夏
北面武士ら夏心経三十万巻読了す
莫煩悩驀直去驀直前進国難の孟夏 






2015年6月27日土曜日

偶々6.27



山の手をみくだしをりぬ花石榴(代官山にて)
ぶだうすいむらさきのこる空の壜(里山辺ワイナリーにて)
からからと晴雨計まはりろくぐあつじん
桃の葉をつんでゆふべに湯にはいる
梅の実も杏の実も落ちてゐる

むらあをくやぶかんぞうがうかびをる
梅雨青葉三脚おもたく測量士
蓼の雨真鍮にぶくひかるかな
白い蝶横切り古美術商もんどりうつ
夏至祭やなすことなくてもざわめく胸

時宗がたたききつたる青葉闇
炎暑かな異国警固甦らずば又如是(またかくのごとし)










2015年6月14日日曜日

偶々614.2


落梅は落人のごと日のくれる
にちやうのゆふぐれJWAVEでくれる
八幡太郎夏おほまたで常陸越へ
八郎は八幡太郎の由八幡平
義篤の八幡太郎血になりぬ
はげしさは龍が棲めし巫女なりし
友鮎やいつまでもいつまでもまずしけり
其の森の森の奥のざわめく奥常陸
修験蔵すやその峰の向こふ夏の雲
妻を縁切るとはおまへは夏の特攻隊か

遇々6月14日


隠れしは何ひめじよおん群れ咲く捨て野に
今元寇打たむ夏かまくらがよみがへり
三井寺や血をよびさます風ふかむ
もくりこくりののろひ解さしむ大暑かな
     (対馬では、蒙古高麗をそう呼んで恐れた)
はなざくろ榴々ふとし幹のうへ
駄菓子屋の眼の薄笑ふ梅雨に入る
   映画「Foujita」に   
えそんぬぶいりえるばくる村は小屋の美学
蕗の葉も螺旋で開ひてをりにけり
黄梅や万に似て切れし縁もあり
ひるがほに田水落としの音ばかり
花鯛をわいんととまとで煮たるかな      
   (桐島かれんさんのFBの料理より)
覚悟もせず結界こへて炎暑かな
金蔵すやまなみあをく霞みゐて  

2015年6月5日金曜日

偶々6月5日 



ろくぐあつの風に剥げおつ胡粉かな
あおももや白磁の壷もあをみけり
れもんしぼるろくぐあつの夜もありにけり
夏夜肌さらしてをれば異人のきみにあへる

あおももや恋のる・しにゑ感じをり
みづいろとぐんぜうとけあふろくぐあつ光
なつぐみの酸ゆるがままにまづしけり
さういへば書庫ばかりの日々だつたどくだみさう
もてるもの花鋏のみ首夏かな

こふるほどひととほのける首夏かな
もてるもの花鋏のみ首夏かな
しにゆけるひとひそんでをりぬ蛍ぶくろ
ろくがあつのよあけにきみのけはひあり
わたくしのぷりまべいらやすみればな

晴雨計からからなりてろくぐあつじん
新生姜かれいのにつけあまさかな
あおももやあなたのとなりここちよさ
銀の皿ににどくだみさうをいけにけり
わがうそをかくすどくだみそうののみちかな
晩春のぱすてるあうらまじわるすこしうへ

ごんどらのぱすてるすてられてあり晩夏かな
あるまいとの弁当箱ろくがつ光はねかへす
いつすんほど浮ひてぱすてるまじはへり

2015年5月29日金曜日

明治美術学会の「近代画説」







早稲田大学文学部内に事務局のある

「明治美術学会」の基幹誌だ。

ときどき、論文を読んでいる。

明治以降の画家たちの作品解釈や

掘り起こされたエピソードはひどく面白いのだ。

学会誌である以上、内容は高度だ。

書籍を読むことも、学会誌の論文を読むことも大切な作業だ。

ひとつのテーマについて、10本も集めてみると、

おぼろげな全体像が理解でき、

真贋判断の視点も、構築できる。


2015年5月28日木曜日

祝詞を覚えて、奏上する。



俳人の五島高資さんは、自らのルーツを探るために、

長崎県の五島列島を回ったそうだ。

それは今も続いているが、

回りながら、島々のお社を、それこそ無人のお社を訪れて、

祈ったんだそうだ。

きちんと祝詞を奏上したという。

そのように、お社を巡ることが後々、

五島さんに力とインスピレーションを与えたんだそうだ。

Facebookの俳句大学では、毎日、五島さんがコメントしている。

質問にも応えている。

時に、お社めぐりのことを話す。

そのなかから、祝詞奏上の、現実的な力を知った。


筑波大学の柳田優子先生によると、

延喜式祝詞がおさめらている最古のものは、九条家本(東京国立博物館蔵)であり、平安時代後期の写本。祝詞は、江戸時代の国語学者により本格的な研究が行われ、賀茂真淵著『延喜式祝詞解』(1746)、その後これを改訂した『祝詞考』(1800)、また、賀茂真淵の門下の本居宣長の『大祓詞後釈』(1796)『出雲国造神寿後釈』(1793)など。

写真は、

大正時代の有朋堂文庫「古事記風土記祝詞」の

「春日祭」の頁。

きのう触れたように、注釈という作業を進めながら、

古代日本語を感じ取り、

神宮で、静で、

祝詞を独自に奏上すべきだという思いが持続する。





遇々5月28日


   遇々 

たちばなの古代帰化びと名はじゆりえつた
秦氏すむむらほそみちにじよちうぎく
追われし帰化人は前方後円墳のうへにすむ梵天として
風鈴のよひ砂鉄ならばよひ音なる
したたかにうちのめされて虫線香

速度うしなへばうとまれるつゆにいる
いつものあかではなひ夏ゆふぐれと痴呆とが並んでゐる
目みへぬゆめばかりみて夏座敷
学問をうしなひさまよふ草城句痛みかな
錆びた鉄工所残されし砲金夏果つ

雨音聞きとまと食ふ庭窓は黄金比
 講堂の幻燈絵明るく校庭は黒夜
湖の底の土器を拾ふ惑星からとどくひかりで
浅ひかりがらす皿にレタスが包む溜息

  ∵
あぼがどのかたき種皮をわりやがて
凌駕するかやはらかきあをが
  ∵
たちばなの古代帰化びと名はじゆりえつた
うすあかむらさきの山脈のふもとに
  ∵
梵天なる前方後円墳うへに住む帰化びとら
追われし2千年もくれるなつそら
  ∵
秦氏なる帰化びと住めるむらほそみち
除虫菊咲けりもとの絹道は遠くて

2015年5月27日水曜日

注釈



実作と論は両輪だ、と詩人が言う。

2013年俳句年鑑の藤田真一さん「俳文学展望ー学会誌の課題」を読む。

注釈への視点という項。

本居宣長の「古事記伝」によって、江戸期のひとびとが、古事記を理解できるようになったこと。

本居宣長はだから、古代言語と思考を理解できた超人だ。

幸田露伴は、「俳諧七部集」の注釈に精魂を傾けた。

全作品に注釈を施している。

翻って、注釈とは、一聞、地味ではあるものの、

「作品にあたらしい息吹をふきこむ原動力だ」だ。

論を築くために、注釈はいのちのようなものだ。

2015年5月25日月曜日

偶々5月24日



    偶々

清和なるすずかぜたちぬ静の神
血にあふて素粒子ざわめく首夏かな
 (以上静神社にて。中世常陸国佐竹氏同族の古ひ血、宇留野氏と邂逅す)
香一柱たてて夏断の八卦堂
八卦堂臍に常陸国は夏を呼ぶ
傘雨忌やみづもゆふべもあなたより

ゆふぐれのそのてつせんの濃むらさき
あをな煮てくずみゆくあをおしみけり
あをうめをあさはやきあめぬらしけり
あをふかきなかにぼうたんひとつかな
あをりんごあをは酸味の暗喩かな

しらたまのその手のこうのしろさかな
にほんじうの妙見山で砂金採るんだきつとあるから
  (大子町金沢にて。妙見信仰は金属資源発見技術のひとつか)
あぶくまのはなたちばなに雨意ちかし
あをいごぐあつ相場師の部屋もあをにそまるの
夏の燈やあなたのいのちおとろへず

せつきやうくさきぼうずの句などどぜうなべ
あを驟雨よろこべる子らやまのむ
夏至の夜にたまいれをせむ八卦堂
夏ごもり八卦堂うちにて智恵を愛く
八卦堂まんなかにたちて知恵を愛く

静の神清和の風の知らせあり
夏至の夜の常陸国の臍八卦堂
あぶくまのはなたちばなに雨意ちかし
ごぐあつのあをは相場師の部屋も染めてゐる





2015年5月18日月曜日

遇々5月17日



たかはらのはるぜみいつせい空耳や
なつだいこん煮てにちやう饗すかな
しらたまやわづかな時ををしむべし
一葉忌その十一か月をわれにもと
そら豆を茹でていねいに生きたしと





2015年5月16日土曜日

遇々




うすものをかぜ透り過ぐゆふべかな
あるてみしにん噛むでこんちくせうとあふぐ (よもぎ成分)
ひたちのの夏野をゆきてみちたてる
片蔭のつまこころぼそげなよこがほや
あをつゆの常福地てふ村窓深し

にしびなか金輪のなかつまはをり
あさぐもりごくあいばかりのてがみ捨つ
夏座敷一語つたへてもどりくる
蓬春の栗鼠の瞳に青葉闇        (山口蓬春を入手す)
薔薇垣をすぎいひわけはしまひけり
 
こばるとのそうだすい透ひてゐるかあをいろか
銅の神だんだんぶだうばたけをおりきたり 
にれのもと香水瓶うめのち術つかふわれ
ほうじゆうは罪つるばらのうへ黄蝶とぶ
やまぶだうとあけびの蔓を採るしごとしてゐるんだ

こばるとのそうだ少年湖水の記憶をゆるす
湖の底の土器を拾ふ惑星のやうにをどる水
浅いカリガラスの皿レタスが包む溜息
窓辺にて外へと指しまねくはるにれの梢
あのかたは築地の崩れと蓬を超へて撫子を

花篭はたちまちゆきくれて東宮へ
種を洗い数日亀裂が硬質を凌駕すあぼがどのやわらかさ
野草同好会のおじさん五月闇に消へた
本棚の本のしじまのむかふ梅林が滲んだ
いつもの赤ではない夕暮れと痴呆とが並んでゐる

錆びた鉄工所で残されし砲金の触感夏果てる
雨の庭の音を聞いてとまと食ふ窓枠が黄金比の
廃線跡に鉄はすでになくて油蝉
梅雨はいつも庭に白磁の皿ある日靄立てり

あさつゆのいのちは半刻だよ
万葉仮名で万葉を読む異人としての
下し器もすりへりにけりなつだいこん
講堂の幻燈絵にはなやぐ夏夜かな
講堂の幻燈絵会校庭は漆黒の夏夜

蛍の夜となりのくりにんぐ屋だけ知りけり
ゆふぐれのそのてつせんの濃むらさき

2015年5月12日火曜日

遇々





あおうめや山名文夫はまだ売れぬ
なつかぜにのりて売り子の香りかな
にしぞらにきんもくすいと立夏過ぐ
金土日五日づつある五月に入る
しきつめしぼたんざくらの花弁かな
さくらもちとほりすがりにわけにけり
額田なる砂鉄のをかはなつのかな
あおうめのふくらみゆける雨の中
ふようさいてかぜもふえたりふほうあり
わかばあめのがしてならぬもののあり
ゆふかぜのしずかにふいてひとをまつ
夕蘭やそのてのひらのやはらかき
にちやうのあさはやくからなずながゆ
はざくらややうやくからだもゆるやかに
さつきののるりこうのくさのかな

遇々 




千波御茶園の洋菓子店にて。

  遇々
まろにへのはなかげゆるるなかに入る
よそひきのよそほひのつまがゐて真珠日和
詩人の恋ところてんのやうなる暗喩かな
あんずの実こわかれすぎしつまのかた
しやくやくのおもたさうなるよあけかな

片陰にだれもが無口でゐたるかな
みなみかぜ菓子の包みが和田誠
鬼相場師駆つていよよ五月闇ぬけにけり
三高生と恋し女給は今も中町でみるくせいきをつくる
まろにへやくれいぼうやんとは嘘ばかり

まろにへやくれいぼうやんとは嘘ばかり
夏帽子欲に眼およげる農夫ゐて
まろにえや子わかれおへてやせたる日
まろにへやこわかれすみて静かなにちやう
しやくやくのおもたさうなるよあけかな
つくばねのみずこんこんと夏むかへ
まろにへやくれいぼやんと嘘ばかり
まろにえのしたふくかぜをまちにけり
まろにえのはなかげのかぜまちにけり
まろにへのはなかげ揺るるなかあるく
からももや子別れ過ぎし妻の肩
日をうみまろにへのしたをあゆむかな

2015年5月3日日曜日

遇々冬から夏へ



はるの句をあつめてにちやうくるるかな
 いつしかとはるの証もおとずれり
 しんちうの把手ののひかりやはるどなり
 はるのよかん あなたのそばの ここちよさ
 はる雪舟 さかのぼりをる ねこぜかな

はるかぜにともにふかれてゐたりけり
少年のぬかなでてゆくはるのかぜ
 かきわかば山女鮓をもらひけり
おくひたち食堂そろいてあずき祭
にちやうはひとのとおりのなくて春日

しらももや一片あげてゑがほかな
 くりますろうずははるや空き家かな
 ほんたうのいかりこそあれはるあらし
しらがゆの日々つづきけりはるどなり
春まつや蓼太に龍雨、万太郎

 玉のごとゆめはうせにしはなぐもり
夢さめてつかむとすれど春しぐれ
塀のむかふよりざぼん落ち来る校庭や
藍いろのゆめはうすきのままにして
くれそんの水をわけゆくはるひかな

蜜柑むくゆびの冷えや冬机
こころづもりあれこれとして宵節句
ひとしれずさせるゆふひのむかふ春
こころときほぐしかねける寒の雨
花冷えや杏所の晩年おもふべし

梅雨冷えやくちびるむすぶ決意かな
 ゆふかぜにゆるる里山辺の夏むかへ
 やまぐにのぶだう畑おりくるやまのかみ
花野きていてつく冬の日おもひけり
ゆふぐれのてつせんのいろむらさきや

鬱金香てにとるつまのむくちかな
 てきぱきとしたることなし春隠士
いしだんのくずれてもぬくし春隣
 嫌われて生きるときめて冬の梅
 銀化せる硝子白亜紀の層よりはる

梅雨はれま流れ踏み切りのむかふのむぎばたけ
古本屋てふせんみんにもはるたつひ
春雷にうたれてもゆる素ひ社
 北十字くれがたの園の秘密かな
ひさかたののどけくありてはるのみち

心平さんは象徴詩人だつたのか春硝子
こころなきことをまたはなぐもり
 あどばるうん信太郎のはるのそら
 どうせうもなしこどくのくせの二月かな
三月やおのずとしれるひとごころ

 はるの遊撃手ばっくはんどの軽きかな
 はる蕎麦屋はるのしょーるのわすれもの
新聞が開花と云ひてはだざむや
春耕や土こへてくる風あほき
 したしさやはればれと悪口をききにけり

れんぎやうやしとどにぬれてゐたりけり
 くさもちや春慶塗のうすさかな
 とどきをるゆうかんも冷え寒の雨
 春菜にてそらまめもにておぼろかな
 このみちや悉くはずれて二月かな

石榴われそのくれなひのゆふひかな
午睡終へまちすをひらく療養所
 春泥ややうをそだてたる河のまへ
 しゆんでひや筑波へのみちはるかなり
 ものの芽のわきたつやうなおくひたち

相場師ににほんばしのきのめだち
 したひらめ小麦まぶしていためけり
春昼やあるくもつかれしまひけり
くれがたのおしあひざまのはすのはな
 ゆふぐれのくもせばまりて暗くなり

石榴われそのくれなゐにゆふひかな
白秋讀むはるくれがたのうるほひや
春時計なりてごすいよりもどりけり
 ひなあられかくしもてゆく少女かな
初ひなやとこしへのさちおもひけり

 はつひなによばれてゆける座敷かな
 さるかたの聲うつくしききさらぎや
卯月やおべんとうもまたはなやいで
薄紅梅山名文夫はまだうれぬ
 うらのうめいひたきこともやまのやう

 きさらぎや里川のみずただすめり
 きさらぎやしかへしきつと竹の裏
紅梅やおちつくさきはいまだかな
 うぐいすやエプロン女子もひかへめに
 あめのなか観梅駅のきものかな

紅梅やおちめのときのだいじかな
空屋敷こうばひばかりはなやかに
発電所ともしてはるのさむさかな
 ぐずぐずとすることもなき二月かな
春寒やはつでんしよの灯しかな

 さびしさもそらのろもまたおなじかな
 しんとしていつまでもしんとして二月かな
ゆびしろし唇赤しにぐあつかな
 はり窓はこうばいいろをすいこめり
 むざむざとうしなひにけり寒の雨

ところてん春炬燵してゑがほかな
偽ばせを司書のこころねうつくしき
はるかぜや「美学」でがすとんばしゆらある
ひそやかにおもふもありてはるしょーる
 ひとりみにしらぬまつもるはつゆきや

 はるかすむつくばねのゆふながめかな
 つゆざむやひとやまこえもなんぎかな
 はなぐもりびぜんぼりにそふてゆく
ふうけひのなんとはなしのはるひかな
 かきわかばこつぜんとろうばいなくなり

 はるさめにわかれはとほくわすれけり
 もものはなかひもとめしはとなりびと
 はるかぜのいるにまかせむやまのむら
よもやまのはなしはつきぬひながかな
 もてるものうけいれなさいなきのめあめ

 はるかぜはさかかけあがりそらとくも
 あたたかなゆどうふのゆげむくちかな
 ふようさいてかぜもふえたりふほうあり
あさがほをそうといただくあさのみち
 さしてゐえうひのまぶしさよふゆごたつ

 わかばあめがいとうもまたぬれており
 たましひのぬけてしまへりはちがつや
 わかばあめのがしてならぬもののあり
はるかぜやまことにじてんしやしょうじょかな
 いまはただひあしのぶをまつばかり

 よそひきのははをなづけて真珠日和かな
 せつぶんやいくぶんひともよそよそし
宵宮へのれんのかぜにふかれけり
ゆふかぜのしずかにふいてひとをまつ
 みなみふひてきゅうかなづかひおぼへけり

 ながきひやたつたひとりでおしむかな
 ながきひやわきのこながれ透いており
 いしだんにまきちらしたる椿かな
なのはなのつきのみちすらいそぎける
 ながきひやかつてかへりしあんこもち

 おやしきがうりやとなりてなばなさく
 うめのめのかにおどろくこともありて
 みずうちてひとりひながをもてあまし
蜜柑むくそのてのこうのあかさかな
 こすもすといわしのくもとゆぐれかな

 なごしのひおほかぜもふきあけやすき
 ゆりのかでみちてゐるなりはなれかな
 りつしゆんやどこまでもそらあおきまま
かきのしぶもらひてはにぬることもあり
 ふゆのよをたうふにてふでおちつけり

 まゆだまをこねたるゑがほにひかれけり
 せつぶんやひとまちがほもはなやひで
 さきうみしこともありなんさくらばな
あどばるんいつつあがれりごがつぞら
うぐひすやひざのまろきをあいしけり

 さくらもちとほりすがりにわけにけり
 はなこぶしまちびとはここしらずやと
 もものはなあばれんぼうのやうにさき
 みくじひきさうとしまへるつむぎかな

 ゆふぐれをしずかにまてりいちぐあつじん
 いちぐあつもくれてあしたにのりおくれ
 みょうじゃうもさびしからずやいちぐあつじん
 たんじつやゆくりくうてるつまをまつ
 たんじつのもりそばふたつきゅうひゃくえん

 たんじつのらんちはいつもたぬきそば
 めつきりとしごととだへてかんのあめ
 しぐるるやすずのちやいれのひかりかな
 なのはなにさそはれみちのほそきかな
 たんせいなきじやのみせやきのめあめ

 しゃうじしめわらへるこゑのとだへけり
 はるにれもめぶきにけりなあめのごご
 うめのみちゆきてもゆきてもひとりかな
 あおうめのまろきをけふもたのしめり
 いずみてふうなぎやのまへとほりけり

 がつがいへむかふひもありはるのかぜ
 ぎんいろのみちとなりけりかんのあめ
 うめどきやくれがたのこゑとほくから
 はるかぜはそよふけぬけりうすひみち
 くれがたによびとめるこゑはるのよひ

立春やりりしくいきてゆきたいんですあたし
夕蘭のそのてのひらのやはらかき
 はるのゆきしなののそらもおもたかり
 せつぶんやすれちがふひともはなやいで
 ひなかざるやうなかたりをきくひかな
 にちやうのあさはやくからなずながゆ

 はんけちをするりとしまふはくしよかな
 こうじまでこぼれちるなりゆきやなぎ
 つゆふかしろじをまなべるびがくせい
 やまのみちどんどんゆきてみずひきそう
 はざくらのしたでむすべるやくそくや

 しなのにて
 はざくらややうやくからだもゆるやかに
 てつびんのごとんとおとすひとりかな
 つわのはなしたしいはなしすこしだけ
 さざんかをかきわけわけてくるこかな
 なつゆうひえのころそうにのこりけり

 なつおうてあらがらふともちからなき
 あさぐもりはすさけるみゆしずかなり
 あじさゐのいろのねるきてまつてゐる
 しやくやくがほぐれるやうにあさむかへ
 むぎのあきかいがんせんにちかきところ

 のにまじりいちごをつめるひもありて
しらつゆのしらたまのつゆたまゆらに
五月野の瑠璃光の草野かな
 なぞおほきみちしゅんじつのまがりなる
 あわゆきにつつまれてゆくあつこおと
 ふゆのうめにせものばかりにとうじんす

 ふゆのひのわかれもありてれくいえむ
 こなゆきにさえるがいきにきづきをり
 あたたかやかれあしのみちけふもまた
 はなぐもりそばやでかいぎひやざけも
 かぜたちておもひきるべしはなぐもり

 みずたまりはねかへすひのあたたかや
 つゆのよのみちはまつすぐにあらずとや
 しぐるるやきょねんのけふもこのいへに
 ふゆごもりこつぜんとしてしまひけり
 はてからはてへこざくらのさくふもとかな

 つうきんなどなくてえきのひあかあかと
 しゃくやくをさしておもたしせいじかな
 さつきののるりのひかりのくさのかな
れんぎゃうのうすきのかげのうらみかな
 ひあしのぶけふはもすこしあるかうよ
 かんとうにわすれさりゆくひとのかほ
 しみじみとふゆひのいりてふゆなにゆ
 かんきややゆるみしあさのしじみじる

 へつついによりてかかれるはるゆうひ
 うつろさんがつこころもそらになりにけり
 つきのしたあなたのこへだけひびひてゐる
 しぐれてもみずゆきどまるうらのみち
 きんいろのひとずじはしるかんのあめ

 たまゆらのしらたまのつゆこぼしけり
 ばろつくなるかみほほえめるはるのやしろ
 ゆふぞらにさはひでゐるかさくらかな
 うめどきもむらさきしきぶのこるかな
 たんばいこうだんだんとつちにうぞもれり

ふようさきつけもいただくつくばみち
 いしだんよりながめてとほきひのながき
 どんよりぬふゆぞらまもなくおはりけり
 かじかみてそのひととあふゆふべかな
 しようじあけいくぶんきぶんもうへのほう

 たんじつやだいくさんのたたくおと
 ふゆのあめあつかだれかがくるやしれぬ
 はるごたつこづかいみつつにわけにけり
 さむさうなさむそうなしょうじょにこえかけぬ
 がらすどをたたひてゑがおよざむかな

 ふゆぞらにつきぬけてゆくてらのおと
 みずぬるむだいがくのなかぬけてゆく
 はるしぐれさぬきうどんのなまぬるき
 きのはやひおぼろづきよとなりにけり
 しばらくはあたたかきかなてらのみち

 みへすひたうそばかりなるよざむかな
 ひざかりにしごとのありてうらやまし
 かすみたつひのつづきをりしばらくは
 しらぎくのかれのこしありにがつかな

にぶいろのすゐせんのすゐせんのはな
 にちやうのゆふぼさのばのはるおしむ
 ひかへめなあなたなるこゑはるのよひ
 しらつつじはるかぜはやくとほりけり
 がらすどをすくひかりありふゆひるま

 きょうしょながめしかしらやまかぜを
 かくざとうかいてうあかるしはくしょかな
 かくざとうとあなたのゆびをはるおしむ
 すてにはにけしもさうびもまつさかり
わがしやがしじんでありてひびうつくし

 あいひめもぬいひめもにがつのかごでえどにたつた
 はなのめのほぐれつつありやまのみち
 やまのとしむくちなはるのまつりかな
 たそがれもながくなりぬつかれかな














遇々


ここからさきは簡単ではないとどうそしんとごぐあつのそらが
あの日より緘口令つづいてゐて初かつを
いるか兆しひまらやでなゐ震れた春がきのふとぢた
めうろんの實すろうぴつちで放りたし
なにももたないでゐるはずるひ風光る
そでからなつかぜぬけて無一物とはかなし
けふでさまざまおはりにしたひと四月尽く
あけはなち太古のそらのごぐあつかな
あい姫もぬい姫も五月のかごでえどへたつた
このひざしでゆふうつを濯へ五月
夏安居こはくていかなひくせに修行者ぶりする
白ひ皿蓮にたとへしくりすますろうず
吉田一穂さんごぐあつがおうごん浪費してゐます

遇々

咲いてはいけないソムニフェルム種渥美芥子ひらく
村八幡咲いていけないソムニフェルム種繁殖す
異しきセティグラムひらいてをりぬ晩春に
赤玉生みておとめに化せぬ
さひていけなひセティゲラムひらくおいらくの夕に

咲ひていけなひ渥美芥子ひらくおいらくの夕に
帰化芥子さhiてあやしく犯さるる国土
東国があやかしの芥子に犯されてゐる
沿岸はいるか大漁地震警報発令す
沿岸はイルカの漁の春きたり

平然といるか食ひけり濱の夏
夏浜が地震の兆しイルカ大漁す
いるか大漁す沿岸地震を兆しけり
かなしみのいるかの大漁地震兆しけり
地鳴りするきざしなるいるかの春の大漁せり

地震前兆せるやいるかの春の大漁や
浜は夏なゐ震れきざすいるか大漁に
いるか大漁なゐ震れきざす浜は夏
かなしみのいるかうちあがりて濱は夏

ゆくはるやさてつのはまのたたーるじん
なつかぜがふひて八幡太郎きたをむく
つくばねのみずほとばしるごぐあつくる
しうまいをたっぷりたべて春惜しむ
あのころは春の電話混線ばかりなり
混線ばかりの春の電話のあのころの

春の灯に誘われしうまいたべにけり
春の灯のまへで思案すしうまい屋
ぽつねんとしうまい屋の春の灯や
ぽつねんとしうまい屋ありて春の灯や
しうまい屋春灯あかあか誘ひけり
春の灯のしうまい屋あかあかと誘ひけり
春の灯のぽつねんとして招きをり
ぽつねんと春の灯のある店に入る
日あたるところもあたらぬところも菜の明かり


立春やりりしくいきてゆきたいんですあたし
あどばるうんあがる信太郎のはるのそら
こころなきことをまたきく花曇り
ちちいろのこぶしのしたの憂鬱や
どうしやうもなひ孤独のへきのにぐあつかな

あけはなちごぐあつの風をまちにけり
くさもちの春慶塗のうすきかな
相場師ゆく馬喰町のきのめだち
柿わかばこつぜんとろうばゐなくなり
なつかぜのゐるにまかせむ坂かけあがる