2015年8月25日火曜日

栗駒の佐竹氏3

 秋田久保田藩佐竹氏にとって、湯沢の南東、けわしい栗駒山系をこえた栗駒に、20軒もの佐竹一族が永らえていることは、謎のひとつである。いくつかの論があって、確定的なことはなにもない。しかし、江原忠昭「中世東国大名常陸国佐竹氏」(昭和45)によると、次のような記述があり、愕然とした。それは栗駒の佐竹氏2に継ぐ展開だったのだ。

 …佐竹秀義を総領とした佐竹一族は、奥州征伐戦では、常陸国守護職八田知家に属し、名誉回復を計って軍功があった。のちの「佐竹義篤譲状」には、『代々、相伝御下知……嫡男……永代所令譲与也』とされた所領のうち、陸奥国中野村、同小堤村、佐渡南方、江名村、絹谷村があり、これがこのときの恩賞功労と見られる。もちろんもっとも大きな恩賞は、常陸奥七郡がそっくり返されたことである。…

 中野村とは、栗駒中野のことではなかろうか。このあと、佐竹秀義は美濃国にも所領を得ており、その後、美濃佐竹氏となった。もちろん家紋は同じである。鎌倉初頭に、常陸国から一族、一門が移り住んで、永らえてきたということではなかろうか。したがって、私自身は秋田佐竹氏よりはるか400年前に、常陸国を離れた一族だったかもしれない。
 さらに資料を読み込んで、接点を見つけよう。

2015年8月23日日曜日

栗駒と佐竹氏2

 古くから栗駒に20軒ほどの佐竹の一族があることは、秋田佐竹藩の歴史では、謎のひとつとされているのだが、はたと思いついた。近世初頭の佐竹氏の動きにとらわれるまえに、栗駒と佐竹氏の接点は、もっと以前にあるのではないかと。探してみる。


 1189年夏の頼朝の藤原氏壊滅をねらった「奥州征伐」が最初らしい。このとき、常陸国の佐竹秀義は、頼朝に従って平泉まで進軍した。頼朝は、奥州征伐に、「かつて義経に従っていた者たち」を動員した。そこに佐竹秀義も含まれていた。


 1185年に、義経は鎌倉へ入る事を許されなかったことから、頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放ち、それに呼応していた佐竹秀義は、頼朝の攻撃にさらされ、金砂山の攻防で頼朝に敗れていた。参加しなければ、所領没収が決まっていた。義経はすでに、藤原泰衡の騙し打ちで自害に追い込まれている。


 接点は、平泉陥落の直前、8月20日、栗原・三迫の要害を落として、津久毛橋に至ったあたり。頼朝と藤原氏との戦闘のこの場所が、栗駒だった。


 栗駒中野の20軒の佐竹一族だが、東南へ数キロのところに、平泉で自害した義経の胴塚がある。五輪塔と石碑がある。地元では判官森、弁慶森と呼ばれている。「奥羽観蹟聞老誌」「封内風土記」「平泉雑記」にくわしいが、栗駒山麓には北行伝説も含めて義経伝説がおびただしくあるそうだ。


 佐竹氏は、奥州で、義経を庇護した藤原氏を、同じ源氏の頼朝と、滅ぼす手伝いをしたのだ。佐竹の一軍は、栗駒で合戦し、通過しているということだ。「吾妻鏡」や、佐竹秀義の12人の子についてなど、もう少し奥州征伐の資料を読まねば。

2015年8月22日土曜日

栗駒の佐竹氏



  宮城県栗駒に佐竹氏が20軒住んでいることは、秋田佐竹氏にとって、謎のひとつだという。いくつかの論があり、それは解明されているわけではない。この伊達藩領に、江戸初期に移り住んできたというのが、栗駒に生きる人々の定説になっているようだが、文書が残っているわけではなく、単に言い伝えに過ぎない。きちんと調べていることもない。400年にわたる帰農によってすっかり忘却に沈んでいるのだろうか。

  栗駒中野には、「中野神楽」という民俗芸能があるが、演じられる衣裳のうち、扇は、五本骨に赤い日の丸。これは鎌倉にさかのぼる佐竹の軍旗の家紋であることは特筆すべきだ。鎌倉時代にさかのぼるの佐竹氏である。

 栗駒に住む佐竹氏子孫の共通した伝承は「常陸国から秋田へ移るときに、途中で脱落した先祖が住み着いた場所」。実によく統制されていた一族にこのようなことは起こりずらい。山本秋広「佐竹秋田に遷さる」を読めば、佐竹の一体感がわかる。この伝承そのものに不自然さを感じる。

  基本に戻れば、江戸時代に、秋田藩領で、佐竹を名乗ることができたのは、秋田佐竹の東西南北の四家と岩崎分家、少輔家の当主6人だけである。嫡子以外は一門の養子、(たとえば梅津、塩谷などの)になっていったからだ。一門の一部がどのような経緯で、伊達領に流れたのか、ということを証すものはなにもない。一門(血族)のうちのだれかが、栗駒に移ってから、本来の姓である佐竹と改めたのなら、理解できる。

  秋田市佐竹史料館は、考えられることを、いくつか指摘している。

①秋田佐竹藩と縁戚にあった仙台伊達藩との人事交流は江戸初期から活発であり、秋田藩に伊達氏が家臣として入っていたように、伊達藩にも佐竹氏が配下としてあったことが考えらていること。ただし、伊達藩における佐竹のありかたは文書が存在しているわけではないし、今後の探索が待たれる。
②江戸中期の、少輔家と南家、岩崎分家の後継争いによって、湯沢から峠を越えて逃避した一団の存在。しかし、佐竹の血のつながりはつよく、秋田に移ってからは、身内の争いは少なく、考えにくい。岩崎藩と栗駒岩ヶ崎の符号。
③伊達藩領に移り住んできた脱藩武士町民農民が、「佐竹領」の出身として、佐竹と名乗った。
④江戸初期のきりしたん迫害によって追放された一門の一部が、栗駒に移り、改めて、佐竹と名乗った。湯沢のある祭りは、きりしたん迫害を受け、改宗を拒否した佐竹一門の一部が家再興のために祈願したことが端緒だったというが、これもヒントになる。湯沢―栗駒には、特殊な人々が往来した古道がある。このことは、湯沢地方と密接につながっていた理由として、栗駒に住む子孫に伝えられているようだ。切支丹街道とも呼ばれるそうだ。
⑤山形県上山と同様に、明治以降にどっと増えた、ご存知の理由。

  秋田藩内にいればよいものを、なぜ、移らねばならなかったのか、それがわからないからもどかしい。むしろ、何も関係がなかった、とする結論のほうが自然だ。佐竹という信用価値、ブランド価値を利用した人々だったのかもしれない。文書が出てくる可能性はないだろう。いずれにしても、明瞭なルーツをたどれないということは、自分の血を証しできない不幸だと思う。

  個人としては、常陸、秋田、栗駒山ろくへの親和は深い。栗駒岩ヶ崎の曹洞宗黄金寺の住職が話していたが、栗駒には金の名がついた地名が目立つ。砂金が採れたし、砂鉄も採れた。峠を越えればわずか50キロのところに、佐竹藩が開発した院内銀山がある。常陸国もまた砂金をなした。金砂郷など金を産する地名はあちこちにある。栗駒中野にも古い炉跡が発見されたんだそうだ。

  藤田東湖の父、幽谷は、常陸太田の農民だったが、自らの出自を中世常陸佐竹氏につながる武士と史料を探し出して、強引に結びつけたことはよく知られている。それほど出自は重要だ。だから、私もそれぐらいの強引さは必要だろう。関連史料をさがし、点と点を結ぶことをしなければならない。もどかしさ、いらだちが解消されるまで。
 
  私のルーツは、宮城県栗駒である。さかのぼれば秋田である。さらにさかのぼれば常陸太田である。といわれている。しかし、それが実は、判然としない。佐竹会などに呼ばれることもない。佐竹北家は伸びているが、南、西は東京に移っていったんだという。秋田の土地を捨ててしまったかもしれぬ。それでも、各家には系図があるのだ。


 系図をみつけなければならぬ。いずれにしても、家を再興しなければならぬ。土地に根を張り、業を興し、子孫を増やす。そのような志を持たねばならぬ。

2015年8月15日土曜日

偶々815


水戸市木葉下にて早朝。

 偶 々
萩の葉の諧調深し驟雨来
まきへはぎずつと急ひでゐたから見へなかつた
萩むらを抜けて青空頂戴す
萩叢に人音といふものわずらはし
ひかへめといふゆかしといふ夏の萩

黄昏の萩原を走る記者子〆切ちかし
死せる訳は浮世ばなれの蛍かな
陸稲の甘きにほひにしづむ丘
盂蘭盆会異人が呼べる仕事多し 
蘭学者のいへかたずけてゐる盂蘭盆会(新屋敷にて)