2015年11月27日金曜日

偶 々1127



 偶 々

片崗は 柿葉あかりの 續くかな
梔の 實に日のいろの 殘りけり
ゆずの香の ひそんでをりぬ つたひみち
しぐるるや 定家机の 胡桃つや
どのいへも 柚子採る梯 ばかりかな

しぐれゐて 土におさまる 朽葉かな
さよしぐれ 土塀しづかに くずれけり
北窗を したたかうてり ゆふしぐれ
寒月に 鈴懸の果の 殘りなく
しぐれやみ 浮かんで來たる 庭の靑

2015年11月23日月曜日

藤原定家筆「小倉色紙」の古筆極書


極書が出てきた。極書は、平安から室町にかけての和歌、漢詩、経典、手紙、記録類古筆の、真筆を保証する鑑定書のことをいう。この極書は、縦13㌢横3㌢の大きさで、「京極黄門定家卿 みせばなや」と表書きされ、裏に「小倉類色紙 甲申」とあり、台帳への割り印がある。

 意味するところは、江戸期の藤本了因という実在した古筆鑑定家が、「この色紙は、藤原定家の筆になる、小倉百人一首のうちの、見せばやな雄島(をじま)の海人(あま)の袖だにも濡れにぞ濡れし色は変はらず 殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)」の保証書、ということを指している。

 殷富門院大輔は1130-1200ごろの女流歌人。定家と交流があった。女房三十六歌仙の一人。小倉百人一首90番目に登場する。千首大輔の異称がある。正直極書をはじめてみた。鑑定された、定家筆の殷富門院大輔「小倉色紙」はどこにいってしまったのだろうか。

 「明月記」に記載があるように、小倉色紙は、嵯峨中院障子の色紙形に,天智天皇以下 100人の和歌を書いた古今の歌人の百首を選び、障子に貼り込んだものという。今日、地模様の無いものと有るものと二組があるという。武野紹鴎が室町時代に茶会に用い、初めて茶席の掛け物とされ、江戸時代に、古筆はブームになった。

 翻って、鑑定書がついていたはずの、殷富門院大輔の歌を定家が書いた小倉色紙はどこにいったのだろう。多くは美術館が所蔵しているが、梓沢要「百枚の定家」によると、100首のうち49首は所在がわからない。一度も、記録に出てきていないのだ。定家はいったい、どこにいったのだ。

2015年11月22日日曜日

嵐雪 一葉ちる 咄一葉ちる 風のうへ


百万坊旨原編集の服部嵐雪句集「玄峰集」(寛延2)が出てきた。江戸中期の写本。

 一葉ちる 咄一葉ちる 風のうへ

 句集最後の辞世、に目が留まる。
 最初に、「風」という筆致が力強く、ひきつけられた。強い知性を感じた。次に、江戸の俳人が、風のうへ、という表現をしていることが新鮮だった。風の「うへ」なのだ。いったい、風のうへとは、なんのことだ。さらに、「咄(とつ)」とはなんだ、と思った。禅語で、「喝」と似ている意味だそうだが、よくわからない。写本は「吐」と誤植か。最後に、「一葉ちる」のリフレインの効果を感じた。

「…此初の一葉ちる咄とは世をはぜぬけたる所にて是よりは皆風塵を出し物なりといふ事とかや或禅師の曰何事も道に最ぬけざればいで大事の場合に臨みて心おくるゝ物なり嵐雪いま此の所に及びて一句みだれず殊に咄の一字宗學たけたるものにても容易に出ぬ事なりと此真跡を見られたる折深く賞賛してやまざりき」

 わたくしなど及びもつかぬ“背後”があるのが江戸俳諧のようだ。イメージ、象徴、モチーフの宝庫の一端を垣間見た。

2015年11月8日日曜日

偶々1107


水戸市田野にて

偶々

冬立ちて 水は光に 烟りけり
暮れてなほ 落いてふには 日の名殘り
小春立ち 霞むうらんの 廢鐄山(やま)の村
日の丸辨當の 冷たさもそれ 小春かな
いきなりに 木の實時知る ものの音

小春空 歸去來の子を 慰めり
たけ狩りの 生藥師はやまの 話を拾ふ
石組みは 秋の日を吸ひ 溫きまま
龍村に 黄柚子つつむで もたせけり
蹲踞の 菊は菊賣が 投げていつた

花鋏で切る 野の紫苑それは 儀式別れの
ホロヴイツツさん 別れを知つているんですね 雨の秋の
ひとが主役ではないと 北アルプスに 冬來たり

2015年11月7日土曜日

子規の肉筆


    このほど、子規の肉筆らしきものが出てきた。「子規全集」未収だ。肉筆と出合うと、眠気が覚めて、文学史上のひとびとが、リアリティあるものとして迫ってくる。俄然、その文学者のありようを調べたくなる。真筆か偽筆かを調べる過程はとてもたのしく、さらに、子規の古俳諧への博覧強記を知ることになったのが収穫だ。


 藤川忠治の「正岡子規」(昭和8)によると、子規は、明治28年の内藤鳴雪への手紙の中で、秀逸と感じた江戸俳諧を抜き出しているそうだ。蕪村、白雄、几董、去来が圧倒的に多い。丈艸、許六、史考、尚白が続く。子規が掲出した古俳人の句のうち、わたくし的には、几董が三番目に位置していることに注目している。几董は忘れ去られようとしているからだ。


   俳句の革新者と呼ばれているが、ここに少し誤解があるようだ。ぽっと出てきたあたらしい俳句の感性、なんてものではない。東京帝国大学の学生のころから、古俳諧に取り組んでおり、膨大な考証的研究を積み重ねていた事実を後人はほとんど知らない。ウィキペディアでも言及がない。活字ではない。和本を次々読んでは抜き出していった。「分類俳句大観」の大著はそうして出来た。蕪村を賞賛評価できたのも、その積み重ねからだ。それゆえ、たとえば碧の俳句史への無学ぶりを不安がったというのもよく理解できる。古俳諧の収集研究の先覚なのだ。書生俳句なんてとんでもない。おそろしいほど博覧強記。その姿勢と努力に敬意を払わねばならない。
 
 季語ごとにわかれている「分類俳句大観」を読んでいると、やはり、出来に差異があり、きらきら輝くつくりてが浮かび上がってくる。幸田露伴の「評釈炭俵」、あるいは岡野知十や加藤郁乎をテキストに、古俳諧を読み解こうとしてきたが、子規の手法を鑑みたい。古俳諧に触れ、学ぶほど、きっと古い美意識を知ることができる。

2015年11月5日木曜日

東郷青児の装丁



薄汚れた函のなかの、数十冊の古本のなかで、
東郷青児の装丁、挿絵だけがきらきらと光っていた。
昭和21年、コバルト社の、
質のわるい紙の、うすい冊子だった。
東郷はおびただしく雑誌、書籍、広告の挿絵を描いていたにちがいない。
その仕事を確認したい欲求に駆られている。

谷川俊太郎「62のソネット」を掘り出す。


35年前の学校帰りに、炭鉱町の
駅前のこじんまりした書店で
角川文庫の谷川俊太郎詩集を購入したのが
詩の世界を知るきっかけだった。

今日は、「二十億光年の孤独」に継ぐ
第二詩集「62のソネット」(昭和28)に出合った。
哲学者谷川徹三を父にもつ詩人はこのとき、わずか22歳だった。

わたしは、わたしが好きだった本に、もういちど出合いたかったのだろうか。
そのために古本屋をしているんだろうか。
この高まりはいったいなんだろう。

きょうは、たくさんの書物と出合った。
そして、それらの書物について「書きたい」「書きたい」とだけ、感じた。
わたくしは、書きたいのだ。
それだけなのだ、ということを思った。





2015年11月1日日曜日

ふらんす堂なづな集


ふらんす堂なづな集(石田郷子選)でこのほど、特選をいただきました。
他者の句を、読み込めるエネルギー、評にするエネルギーに、ただただ敬意です。