2016年12月30日金曜日

語彙



岡井隆の「現代短歌入門-危機歌学の試み」(1974)を読む。
第三章「語彙と模倣」は、作句の方法として、興味深い内容だった。
岡井隆が叫ぶように書いている。

 語彙を拡げよ。
 月のうちの何日かをそれに労せよ。
 今は黙って、読み漁り、聞き耳を立て、
 頭へ、ノートへ、単語や短句の山を築くこと。

重要なのは、日常語の習慣的な世界を、
語彙の側面で超える作業が必要だということだ。
非日常語を叩き込んで、臨戦できる準備をつくること。
加えれば、文語訳聖書を座右せよ。
そのことが何をもたらすかと言えば、

 その短句や語が、
 ある連想または思想を媒介として結び付けられ、 
 句となり、文となり、歌となる。
 この過程に絶対的に信頼を置いた作歌法もある。

その作歌法とは、
拾い集めた短句を、意識的に、
七五調に整えて、併記する。
それらの断片を、
個人の主題のもとに、統合させる。
こうしたブキッシュな方法が、
マラルメを模したような言葉の錬金術となり、
新鮮な歌が出来上がる。
再構成であるものの、
作者ならではの「連結法」が、個性を生むという。

岡井隆はこの手法は最後まで残るはずだと言っている。














2016年12月29日木曜日

恩田侑布子の俳論

ネコヤナギ紅葉


俳論は意識しているので、Bunkamuraドゥマゴ文学賞を取った、
恩田侑布子の「余白の祭」(深夜叢書社)をテキストにした。
恩田が40ー50歳代の総合誌や結社誌に載せた評論、エッセイ50本以上を集めている。
俳論も取り合わせをすることで妙味が出るようだ。

たとえば「冬の位相」の項。
雪舟の冬の山水画に、蛇笏の句を展開するアイデア力に驚いた。
雪舟「冬景図」への緻密な解析を、
実に執拗に繰り返し、
恩田に言わせれば俳諧の祖とする荘子や
浄土宗の時間概念を織り交ぜた後、
飯田蛇笏の冬の句のいくつかを、
雪舟の冬の山水風景と絡ませていく。

 蛇笏の句は、丹田の力そのものだ。

と締めた。
蛇笏の冬の句が、雪舟山水を背景にきりりと立った。

高屋窓秋の句については、
自己放擲の美しさと自意識の弊を背景に、
自意識の過多にへの嫌悪、自意識を放擲した句の受容力を強調しつつ、
三島由紀夫の「豊穣の海」の最後の場面を象徴として取り上げて
高屋の句と重ねあわせた試みは見事だと感じた。
いわゆる近代的自我、自意識の弊は同書いたるところで書いている。
 
 ぼくは元来、自分がどうしたこうしたという句は、
 少しも好きではない。

という文中採用した高屋窓秋の言葉は、恩田がいつも感じていることなのだろう。
高屋窓秋の句が近代的自我から遠いのだ、と教えてくれた。
こうした取り合わせの手法は、句を浮かび上がらせるに有効だと思った。
しかしながら、
「二物衝撃」の手法だと、ドラマツルギーがない。
三段論法であったり、弁証法的止揚はないから、論とはいえないかも知れぬ。
俳的エッセイと位置づけるべきものかも知れぬ。
だとすれば、求めるものとはずれる。

一方で、恩田が実現したいと思う俳は、

 五七五の極小の詩形は、
 本来大きく豊かな世界を盛ることがふさわしい。

 宇宙の気と人間の息が火花を散らす。
 あるいはまぐあう。
 このとき一句の底が抜ける。 

 俳精神とは。
 後生大事におのれを抱え込まぬことだ。

などの言葉に表れている。
大きく豊かな世界とは、肥大した自意識を超えたところにある、宇宙の律動だと感じる。
それは季節の循環となってあらわれている。
深く観照したり、全身で感じるとっているものを
うまく言葉にできていないもどかしさも同時に、感じているようだ。
よい俳人はよい哲人であらねばならぬ。

自我にまみれた句がいやで仕方がない、と叫んでいる書だ。
きびしい文による、きびしい内容の書だ。
抒情とはつくづくと迂闊なものだと思わされた。
ただし、新聞文章を修業したものからすれば、
わかりやすさは必至。
力んではいけない。














2016年12月26日月曜日

餅を食べぬ家


奥常陸では、正月に餅を食べない家がある。
その謂れは、戦国時代の終わり、佐竹氏の秋田左遷にある。
佐竹の血を引く家々のうち、常陸国に残らざるをえなかった家は、
その時から、餅を里芋に変えた。

常陸大宮の宇留野さんという家は代々そうだった。
宇留野氏は中世に遡る佐竹の血族、というのは自明だ。
「うちの父の代まではそうしていた」と、娘さんから話を伺ったことがあった。

民俗学でいうところの「餅なし正月」だ。
安田喜憲編「山岳信仰と日本人」にくわしいが、
正月の儀礼食を餅ではなく芋にするという地域が点在するという。
門松も立てない。

坪井洋文は、「稲作文化以前の名残ではないのか」という説を立てている。
芋への価値は、米をしのぐ、という意味だそうだ。
文化、暮らしには、重層性があるのだということらしい。

五来重はたしか、
米を主食とするひとびと、そうでない雑穀を主食とする人々が、
実に長い間、列島に分かれていた、と言っていた。
むしろ、米を悪と捉えてかたくなに拒否したひとびとの流れは、
山の民だったという。

千葉徳爾は、非稲作民の古い文化の名残というよりも、
「餅を食べぬ家」とは、
世間一般とは異なる「由緒正しき家柄」を誇示する特殊性だとしている。
奥常陸での由緒正しき家柄、はいうまでもないことだ。

それにしても、
当主の決意が少なくても四百年も持続している。
たった一つの決意、誓いがだ。
そのとき血族に起こった出来事の重さ、を感じざるを得ない。
ただ、なぜ正月、なぜ餅なのかはわからない儘だ。

わたくしのささやかな決意は、
五百年後まで、影響するのだろうか。














2016年12月25日日曜日

枕詞



枕詞は古代すでに古語だった、

と白川静が書いているが、
自明のことのようでも、
わたくしには新しい。

高橋睦郎の歌集「爾比麻久良」は全詠、枕詞を使っていた。

  いまでは顧みられることのない言葉の古枕を
  記憶の蔵から取り出して、そのうえに
  現代の痩せた夢を預けてみよう。

と書いている。
加藤治郎は、

  口承の時代において、
  神々や土地の名、
  ある風景や感情を喚起した。
  呪術的な力に転化させる力を秘めているように思えてならない。

と書いている。
ふたたび、
枕詞は古代すでに古語だった、という白川の言葉はやはり驚く。
奥常陸の風景を見にゆくたびに、
枕詞となった古語たちが、
どのように人々の意識、思考、感情、行動を
変えていったかをついつい考えてしまう。

 ひさかたの は「天」「光」に
 なるかみの は「音」に、
 あらたまの は「年月」「春」に、かかる。
 そらみつ は「大和」にかかる。

枕詞の中に、季節の循環と律動を伺うことができる。
高橋の言う、ひとびとの記憶の「蔵」を開けてゆく鍵に違いない。
まだ言葉が口承だったころの、
生きるに重要な言葉だったのかもしれない。
象徴としての枕詞。

わたしが呼び起こしたい記憶の蔵とは何だろう。
もどかしい。










2016年12月22日木曜日

偶 々



年末年始は、ガストン・バシュラールに没入したい。
静神社、西金砂神社、鹿島神宮を詣でる。
及川馥先生にはぜひ一度お話をうかがいたい。
写真はルミエールを捉えた瞬間を。
句集編集二百句と写真8点。
後ろにエッセイ1編。
組版も十分に吟味する。



  偶 々

ひさかたの冬の北斗へ磐梯(はしご)
名を知れば夢想死ぬるか冬銀河
見へぬ穩(おん)桃の實擲げつ夷(ひな)を往(ゆ)く
さゐさゐとそらさゐさゐと小六月









2016年12月17日土曜日

長野まゆみの方法

苺紅葉
雑誌「文芸」最新号の長野まゆみの「銀河の通信所--前編」が面白いので、
どこかの雑誌に、長野まゆみの物語のつくりかたを語っていたはずだ、と。
思い出した。
そうだ。「現代詩手帖」の特集のなかだった。
創作方法の一部を披瀝している。
少し、引用しよう。

 小説を書くとき、
 最初の段階で、こんなふうにノートをつくるんですね。
 まずメモ帳に、思いついたことをなんでも、全部書いていって、
 それをもとに書き起こしていきます。
 
 ノートには好きな言葉、使うかもしれない言葉や情報を一通り並べて、
 とくに気になったところは色をつけたりしながら
 かなりイメージの固まってきた言葉を書いていきます。

 メモをとり、ノートをつくって、
 最初の一行目をキーボードで書く瞬間に、
 ほんとうに世界が変わるんです。
 それで、新しく開いた扉の情報をふたたび
 集め始める、という感じなのです。
 
              (現代詩手帖2016年10月号96頁)

また、

 記憶のどこかにある、
 何かと触れ合うもの、
 というのが、私にとっての詩です。

 こどものときの私にとっての詩は、
 全体を鑑賞するのではなくて、
 言葉の蒐集、収穫作業だったのだと思います。

とも語っていた。


思い出す、のは
生き残るための技術、か。











2016年12月15日木曜日

二物衝撃


取り合わせ、または配合の句とは、
一句の中に、
二つの事物(主に、季語と、無関係な別のモノ・コト)を取り合わせて、
両者に相乗効果による観興を引き起こす工夫を指す。
成功すると、「二物衝撃」と呼ばれるそうだ。
「上手」と芭蕉はよんだそうだ。
ソシュールの言語学、構造主義も読まねばならないとは思うが。
もうあまり、時間がない。

前提に、
  ①切れ、で分かれる。
  ②無関係。
  ③独立。
  ④ひどく離れている。

その方程式は

  二物衝撃 = 「季語 + 季語ではない別のモノ、コト」

らしき句を拾ってみた。余白で分ける。

 蛍火や 心許せば膝くづし             鈴木真砂女
 紅梅を 喪明けの色としてみたり     
 春昼や キャベツ一枚づつはがし       
 花冷えや 茄子にトマトに季節なく  
 
 おでんやが よく出るテレビドラマかな    吉屋信子
 春の宵 鋏の小鈴よくひびき           
 稲妻や 将棋盤には桂馬飛ぶ 
        
 夏井戸や 故郷の少女は海知らず     寺山修司
 秋風や 人差し指はだれの墓        
 たんぽぽは地の糧 詩人は不遇でよし 
 
 綿虫や 路はミとチでできてゐる        拙

いかがだろうか。
季語が、なんでもよくてもよいと思われるが。
ただし、それぞれの句集を紐解けば、
取り合わせは、決して多くないことがわかる。
表現の方法はいくつもあるのだろうけれど。

取り合わせは「対比」かもしれぬ。
明暗
色彩
遠近
象徴。












2016年12月13日火曜日

偶 々

12月の蠟梅の黄葉
 「文芸」最新号で、長野まゆみが、「銀河の通信所」(前編)という小説を載せている。
宮沢賢治の作品に登場する架空の人々を、速記取材班がインタビューし、
賢治の人となり、あるいは賢治周辺のモノを描く。
第1回は、岩根橋発電所のガルバノスキー技師。
第2回は、イ^ハトーブ《博物局》のキュースト氏。

  偶 々

冷へゐたるカンブリア紀の山の尖(せん)
イリジウム降る白亜紀の山眠る
蠟梅の黄は冬野にもめぐるかな
緒(を)ふてまたあらたまる日のひかりかな
明丹てふ産金の渓みふゆづく
















2016年12月10日土曜日

吉屋信子の俳句


かつての毎日新聞夕刊が好きだった。
文芸と美術には看板記者がいて、長い批評を書き、読み応えがあった。
やがて、短い年月だったが、同新聞社の末端で編集の仕事をした。
看板記者のデスク、それに夕暮れの皇居のお堀をよく眺めた。

ときどき、作家がエッセイを長めに書くこともあり、それも楽しみだった。
川本三郎が一度、吉屋信子の、独特の少女の世界について書いた。
読後の余韻をよく覚えている。
「吉屋信子句集」(東京美術 昭和49)を読んだ。

 金塊のごとくバタあり冷蔵庫

屈託のない句に微笑む。
吉屋信子の少女世界が、句にもよくあらわれているようだった。
久保田万太郎の

 パンにバタたっぷりつけて春おしむ

をすぐに思い出した。

読めばすぐにわかるが、快活な、子どものような都会詠だ。
文人との交流が深く、温かいものを感じる。 
鎌倉に住んで、虚子や星野立子と交流したほか、
銀座のいとう句会などへ出かけていく様子もわかる。
高濱虚子とのやりとりが笑わせてくれる。

 虚子 「時として平凡陳腐で箸にも棒にもかからぬやうな句が出来るのであるが」
 吉屋 「はい、それが目下の。私の句でございます」
 虚子 「それがたまたま或る物にふれると、忽ち才気煥発して立派な句になる」
 吉屋 「なかなか煥発いたしません」

中村汀女や滝井考作の序文もふるっているし、
いくつもあるなかで高木晴子の吉屋への追悼句が、
吉屋の幸福な文学の人生を、尽くしたように感じた。
女流文人の幸せだった作句生活がこの句集にある。
なくなるまで、少女俳句、だったのかもしれない。










2016年12月4日日曜日

神仙体

ふたたびブルーベリーの紅葉。


しばらく前に、雪舟の偽落款のある山水画帖24枚が手元にあった。
偽落款ではあったが、古さは室町から江戸初期だった。
狩野探幽の極めもあった。
中国北宋あるいは元の、
禅と神仙隠遁思想を背景とする「瀟湘八景図」を主題とした24枚だった。
画風は夏珪に似ていた。描いていたのは気象だ。
儀落款ではあったが、本物だった。
なぜ本物か言えば、
その後時代を下った山水画の数々を、
美術市場、展覧会で眺めるたびにまったく気に入らないのだ。
単に構図を模倣しているだけなのだ。没入できないのだった。

一度本物を知ると、こうなる。

さて夏目漱石と高濱虚子は「神仙体」なる句をいくつも作っていたようだ。
このことを知ったとき、真っ先に偽雪舟の山水画帖の世界が頭に浮かんだ。

 この神仙体の句はその後村上霽月君にも勧めて、
 出来上った三人の句を雑誌『めざまし草ぐさ』に出したことなどがあった。

 神仙体云々のことは既に前文に書いた通り、
 漱石氏と道後の温泉に入浴してその帰り道などに春光に蒸されながら
 二人で神仙体の俳句を作ったのであった。
 
 そこで一緒に出かけてゆっくり温泉にひたって、
 二人は手拭を提げて野道を松山に帰ったのであったが、
 その帰り道に二人は神仙体の俳句を作ろうなどと言って、 
 彼れ一句、これ一句、春風駘蕩たる野道をとぼとぼと歩きながら句を拾うのであった。

                                (高濱虚子『漱石氏と私』)

実際どんな句かはわからない。
山市晴嵐、遠浦帰帆、漁村夕照、遠寺晩鐘、瀟湘夜雨、洞庭秋月、平沙落雁、江天暮雪。
このような主題の句は漱石にも虚子にもいくつもあるのかもしれない。
神仙体は大観や春草の朦朧体につながっていくようでもある。










2016年12月3日土曜日

偶 々

ブルーベリーの叢
らせんして銀雨しづかにはじまりぬ
木螺(みのむし)も黒姫山も動かざる
百年の大銀盤なゐ哘(さそ)ひたり
玄冥のカドミニウムの杳さかな
寒昴聖なるものの名を探せ 








2016年11月30日水曜日

異人としての俳人


俳句をつくるときの気分を翻るとき、
そこにあるのは「解脱的寂滅的調和」の感情だと、俳人の大須賀乙字が言う。
次のように書いている。

 作句においては、情趣を瞑想し、
 その情趣を呼ぶ重要な概念を探りつつ按排する。
 精神活動がほとんど無意識の飽和状態に入る瞬間、
 つまり自己と外物との関係をわすれたるとき、
 われらはもっとも審美感情を得ることができる。
 静的な審美的な俳句形式が生まれたのは、
 芭蕉そのほかの遁逃者の手によってもっぱら、
 発達を遂げたのは偶然ではない。

句ができあがるとき、巧拙はあれ、一種の観照状態にある。
さらに、その観照状態を生むための努力をしている「遁逃者」たちによって発達した。
乙字の指摘は受け入れなければならない。
同じような記述を小澤實の「俳句のはじまる場所」(角川選書)に見いだす。

 江戸期の俳人はなすべきことがあった。
 笠をかぶって行脚しなければならなかった。
 中世の隠者の流れを引いているのである。
 士農工商の社会の外に出て、異人として生きねばならなかった。
 そのような生き方をしているからこそ見えるものがある。
                       「写生とは何か」

通常の社会の外側にいることは苦しいことだから、
よい意味で書かれているわけではないのは自明だが、
「遮断」が作品を作れるということは、経験で多くの人は理解している。
このような自覚をもって、健全な社会生活を続けなければならない。
そうしなければ、ならない。
そうしなければ、井月のように野たれ死ぬ。

在学期間は重なっていないが、大学の先輩の小澤の論は、評価されている。
その理由はいくつかあるだろうが、博士課程を満期で終え、
日本文学について、正確で豊富な知識、を持っていることが歓迎されている文学者だからだろう。
短兵急な俳句作家だけにとどまらないところにあるのだ。
小澤の俳論については改めて書く。











2016年11月27日日曜日

大須賀乙字の造型美術論


さまざまな俳論を読むことで、視野が広くなるように思う。
俳句史にあって特異な位置にある大須賀乙字は、
俳句は造型美術、なのだという。
俳論「日本特有の詩形」を読む。


 俳句は、概念の配合配列をもってさまざまな情趣を暗示させる。
 外界と自己との関係を忘却し、
 外物相互の、色形上の、対照均整より起こる感情を味わう、
 「造型美術」である。

 突飛な刹那的概念融合は短詩形の特色であり、
 象形文字を借りて、一瞥直覚的に恃むとする。

 和歌は、ほぼ純粋の大和言葉によって歌われる。
 俳句は、全然資格に訴える日本式漢詩の修辞法を襲って発達した。

 言語は本来、実在的像を絵画のように直接表現できないはずだが、
 概念に分岐することで、ある程度まで実在像を写すことができる。

 したがって、
 もっぱら視覚の理解によらんとする俳句は、
 概念の配列を主となければならぬ。


最短17文字は、「視覚」に訴える視覚芸術だという。
漢字と仮名の視覚のイメージ、内容のイメージ、が重なることで、
詩的な世界が生まれる。
文字の表面と裏側のイメージの合作。
絵画的世界が出来上がる。

蕪村は画人だった。
漱石も絵を描いた。
写真家浅井慎平の俳句がなぜこれほど人気なのか。
俳画という世界もある。

言葉でつくる絵画が俳句。
だから俳句はビジュアルアート。
大須賀はそう言っているようだ。

重要だとされる大須賀の象徴論は、次の機会に。










2016年11月25日金曜日

大峯あきら


俳人で哲学者で真宗僧侶の大峯あきらが、次のように言っている。

 すべてのモノは、季節のうちにある。
 わたしを貫いている推移と循環のリズムのことである。
 モノはこれから自由になれない。
 モノは季節的存在である。   
                

堂々とした言葉だ。
自然に応ずることは、後ろめたいことではない。
怠け者、と後ろ指指されることでは決してない。
自然に感応しがちなひとにとって、
俳句は、怠け者という呪縛を取るために必要だ。
だからといって、
単なる写生やスケッチじゃ物足りない。
モノに応じて、モノに感じ、
考えて、悪戦苦闘して、突き抜けた瞬間が俳なんだと。
そう言っている。

 季節の詩においては、
 われわれは決して宇宙の中心ではない。
 すべての物たちと共に、
 一つの宇宙線によって貫かれているのである。 (詩歌文学館賞受賞挨拶)

大峯あきらは、口をすっぱくしつつ同じ言葉を言い、私はそれを繰り返し読む。


                                                                                (千波公園の楓)










2016年11月23日水曜日

御岩山


日立市入四間(いりしけん)の標高500mの御岩山山頂。
最近、パワースポットとして、知られるようになった。
アポロの宇宙飛行士が宇宙から、
この地から光の柱が立っているのを目撃したとか。

山頂の西の突端に、まるで岩のソファーのような場所がある。
ひと一人座れるほどの狭い窪み。
そこから妙義、浅間、赤城、那須が眺望できる。

この岩のソファーにしばらく座るだけで、
疲労が消えた。
爽快感、気分のよさが生じてきた。
これがパワースポットの意味か。
かような不思議体験をした。

しかし、山中も境内にも、
おかしな連中がうろつきはじめたようだ。
女子を追っかけて登っていく一見アスリート風の男。
いかに不思議な場所か吹聴している頭がおかしい男。
ご注意を。



























2016年11月20日日曜日

山中智恵子の星のうた


昭和56年刊行の山中智恵子の歌集「短歌行」を読む。
3年間に詠んだ歌が集められているが、
やはり星の歌が圧倒的に多い。
くらしの中で、星の動きを常に感じ取っていたというべきか。
心と星のめぐりが官能的に観応しているというべきか。
不思議なうたが並んでいる。

  さくら咲く北の妙見七つ星船星みえてたゆたうごとし
  心の上たなびくものを手繰りゆく糸掛け星に春深みたり
  土師連(はじのむら)八島に降りし夏火星父の声すも杳き童謡(わざうた)
  麦の笛冴え残りたり八月のヴェガすずしく曇る方に昇らむ
  さやぎたつことばのゆゑによるべなきむらとに落ちし風の星はも
  海彦(あまひこ)をよびゐるときにシリウスを雪星といひ人の駆けゆく
  木枯らしのみちの長路に目守らなむ友よ草嶺のアルデバランを

心が鎮まると、星に気づく。

                                        (楮川ダムで欅紅葉)










2016年11月19日土曜日

偶 々


茜草其のくれなゐの繊(そひやか)に
たまちはふ金砂山は睡(ね)ぶらざる 
やはらかき金約(ちぎ)る如柞(ははそ)黄葉(もみぢば)
曄(あからか)な夕光迎へつ冬の窗
倭なるわれ待てる椿散る勿勤(なゆめ)
みづ瀞(きよ)く沈(しづ)く黄葉稍(しづ)まれり
蓮根の村へいつたことはあるか穏やかだ











2016年11月12日土曜日

偶 々



偶 々

天狼や千年魄は滅びずと
百済野を見霽かしたり金砂神
冬顕ちぬ不空羂索観音菩薩(ふくふけんさくかんのんぼさつ)白玉の
ゆふぐれはさゐさゐとして冬顕ちぬ
輾調は幸せな結末寒昂
昏き海を傳ふる深く鯨吼へ
山國の團栗でかしでかしかな
冬ざるる千早振る神聲を聽け    …「金砂軍記」発掘で
ちはやぶる金砂神が山眠らず
天狼や頼朝の斷念知りゐたる
日吉権現靉(あい)たるる日の冬霞
迂闊なる抒情遮へぐる銀の嶺
白障子に微熱傳染(うつ)して水仙花
美しきナチ軍服が來る冬曇  …ナチスのデザインは否定できないと
瞠(めひら)けば震る寒星の觸らる程
抒情とは迂闊なるかな銀の嶺
千年の諦念凍る散木奇歌集
和音を探してゐるんだ落ち葉のうへで
                                                                      (県民の森にて)










2016年11月11日金曜日

金砂軍談写本


「吾妻鏡」に治承4年(1180)秋に記述される出来事は、
頼朝の金砂城攻めだ。4箇所。しかし、記述はわずかな文でしかない。

平安末期、平氏を滅ぼした後の源頼朝が、
奥州にあった源義経の反乱に応じようとした常陸国支配者佐竹氏を
西金砂山に攻めた史実を書いた「金砂軍談」の万延元年の写本が見つかった。
原本は茨城大学が所蔵している。
書いた人物は、旧水府村町田の修験道者。
佐竹側からの視点で描かれている。
頼朝勢を防いだ「一族」の氏姓が次々登場する。
それらのひとびとの多くは、常陸国の今に繋がる、血脈。
姓を持ち、名を持ち、
頼朝の血を血とも思わぬ残虐ぶりに抗した、
けなげな英雄的行為だと思える。
揚げてみる。

平賀冠者盛秀
酒出六郎義茂
酒出八郎助義
稲木右馬介義清
関帯刀昌成
老臣小野崎河内
大塚民部
松岡弥太郎
中條幸之助
野口但馬
大縄三郎
黒澤左近
小貫大蔵
関主馬
滝六郎
以下、金砂山に篭城し、鎌倉勢に抗したのは二万八千人。

これらの子孫が今も、消長あれど、常陸国ほかに生きているという事実に驚く。
神風のように、一度は鎌倉勢を打ち破った佐竹勢にとって、
金砂は聖地と呼んでかまわない。
金砂の加護だ。
守ったのは、「山王日吉権現」だという。
たとえば、

  無罪の佐竹氏を滅亡せんとは僻事
  殊に金砂は日吉山王の垂迹
  東国鎮護の霊山に千才(矛)を交え
  峰を穢し戦場屽岶(かんぱく)と成す大罪の狼藉なり
  神罰争か遁る可ん哉
  霊験成ると忽ち多聞天摩利支天仏体現じ
  大空を祈り給わば
  俄に悪風起こり
  四方黒雲靉(お)き稲妻震動
  雷雲雨は大龍降るが如く

という記述。
日吉山王の聖地に、
日吉権現とともに、
多聞天、摩利支天が、調伏のために仏体を現したのだ。

山王権現(さんのうごんげん)は、
日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神。
天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。
最澄は、天台山国清寺に倣って、比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。

神風を吹かせた多聞天は、
持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神だ。

同じく摩利支天は太陽や月の光線を意味する。
陽炎(かげろう)を神格化した存在。
「隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有す」とか。
この特性から、武士の間には明確に「摩利支天信仰」があったらしい。
護身、蓄財などの神として、日本で中世以降信仰を集めた。
南朝の楠木正成は、兜の中に、摩利支天の小像を篭めていた伝えもある。

武は宗教とともにあった。
東国の、奥常陸の武士たちの強烈な精神生活を、
伺い知ることのできる貴重な伝書に違いない。





















2016年11月8日火曜日

石橋辰之助「山暦」


昭和26年刊の畦地梅太郎の木版画で装丁された石橋辰之助の句集「山暦」を読む。
わたくしは、詩では、四季派の田中冬二の素朴な田舎詠が好きだが、
石橋の句は山行を場とする自然詠。田中と重なるものも感じた。
しかも明瞭で透徹した山々への視点に、優れた詩性も感じることができた。

  穂高岳真つ向かふにして岩魚釣

は遠近が効いたよい句だ。
信州に住めば、雲の上に北アルプスがあることに驚くだろう。
山々は常に人に迫ってくるものなのだ。

  光(かげ)の玉樹氷に隕ちつ地に弾く

は冬山でしか知ることができない。
師の「馬酔木」の水原秋桜子は、一時、山々の句を読んだが、次第に都会詠に沈んだ。
「山岳俳句」と呼ばれるが、
山岳への優位性におぼれていないことは書かねばならない。
単なる山男、ではないと。
ホトトギス時代からの写生ぶりが丁寧であることに驚くだろう。
ものの本質を丁寧に見詰める、という虚子の伝統をひたすらに守っている。

  諏訪の町湖(うみ)もろともに凍てにけり

晴れていたとしても、真冬の諏訪湖畔の町はどうしやうもないほど氷ったままだ。
氷点を越えない日が続くこともあるのだ。
高ボッチの頂に立てば、遠く富士山を見張晴るかしつつも、鉢底の鉛のような氷の町が見える。

  落葉松に雪解けの水せせらげり
  落つる日の嶺をはしれる樹氷かな
  白樺の葉濡れの月に径を得ぬ
  雪けむり立てど北斗はかかはらず
  融氷の音か日輪とどまれる

アニミズムの深みを石橋に見た。
厳しい自然が何かを目覚めさせるのだ。
サヨクにも突っ込み、前衛にも取り組んだが、
四〇歳で死んだ。












2016年11月7日月曜日

偶 々






銀の嶺 主役はひとに 非ざれり
形(あらは)れて 發(あらは)し象(かたど)る 冬の暁 ……空海より
もみじなす なつはぜ山斎(しま)の 夕明かり
冬北斗 妙見山は 沙金散らす
瞠(めひら)けば 震(ふ)る寒星の 觸(ふ)らばへり
夥し 冬の櫻に 顕(た)つ宿生木(ほよぎ)……ヤドリギの呪力に就いて
壱節(のつと) 冬の汽船は 死の如く
風立ちぬ 顕ちぬが正し いにしへの
美しき ナチ軍服の來る 冬曇……ナチ軍服の魔力に就いて
詩人こそ 信州の冬に 觸れねばならぬ








                                   (那須にて)




2016年10月30日日曜日

偶 々

藍の花

未來帖 風に闢(ひら)けば 一葉ちる
銀嶺へ 蝦夷鹿の迪(みち) 續きたり
さみどりは 芹一茎の 煮ゆる間の
土にひそみ だしぬひてみたり 李もみぢ
橄欖(かんらん)は 遠き空から 零(ふ)る龝光(しうかう)

名を持たば 卑草に非ず 末枯野(うらがれの)
月の盈(み)つ 晝は惑ひの 斷ち難し
もみぢなす なつはぜ迪の 夕明かり
黒き實は 不穏なるかな はぜもみぢ
水分(みまくり)は みづかありなむ 妙見祀(みやうけんさひ)

殘生(ざんせう)の 幾許(いくばく)あらぬ 一葉ちる










2016年10月29日土曜日

高安国世


冷たい雨降る夜半に起き出して、アララギの高安国世の短歌を読む。
初期の1945年頃の歌。
自我を強烈に出すことのいそがしさにかまびす現代短歌から隔絶した感があった。

  深きしげり出でて仰ぎぬ木幡山いま夕光の淡きみどりを
  色となき空ひといろに見えてをり風凪ぎはてし夕の窓に
  もろこしの葉むら茂れる窓の外は暮れし暫く白き光あり
  しずかなる光満ちくるわが庭のひともと樅の陰の中にをり

「見えるもの」を詠うのではなく、
眼前の形象を通して、
そのかなたに暗示される非在の本質へと迫った、
リルケ研究の成果。
リルケ「ロダン」の解説文で、高安が書く。

 その対象の本質に直入し、
 その物自身をして、
 その内から歌いださせようとしたことは、
 多くの詩から知られる。

この考えを、自らの短歌へと転換させていった高安の努力。