2016年7月30日土曜日



     少女座(ま)せば 白繭(まゆ)ごもりゐて 瞻(まも)りゐる

拙句を、岡山の女流俳人がほめてくれた。
「不思議すぎます。少女の美しいイメージです」
夏の季語、「白繭」について、
思いをめぐらして、翌朝にできた。
無意識的な、女性に抱く理想像。

自爆する男と異なり、
女性は何かをつねに、守っているのではなかろうか。
それは眩しく、遠い。
偶然とはいえ、目を留めてくれたことに、
読み込んでくれたことに心から感謝している。

原初なるものへ、根源なるものへ、
言葉を見出すのは、いつのことになるのだろう。
ただ、
句という術を持ち、
わたしの日々は2年前から充実している。









2016年7月29日金曜日

「田園に死す」



寺山修司「田園に死す」。
昭和40年8月初版。
本人自筆献呈署名。
粟津潔装丁。

  村境の春や錆たる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ

おいたち、郷里への怨恨だというが。











2016年7月23日土曜日

界隈




























偶 々



  偶 々

物部(もののべ)の あらかにまほし 夏梵天        あらか…貴人のいる場所。在り処。
青田に浮かぶ  狭竹物部(さたけもののべ) 大古墳      …古代の久自国造に佐竹の姓あり。
太祖(おほほや)は 狭竹物部 青田風
炎帝や 物部(もののべ)の墳 ざわめけり
滴りて 星宿菜(とらのを)星を 落としけり
ほくそみの 多(さわ)に遮(さへ)ぐる 山路かな
病癒へぬ 月盈(み)つゆふの 蝉の聲
夏の夜の 月蝕浴びる勿レ 額(ぬか)晒す勿レ
藪紫 咲けば金山姫神(かなやまびめ) 近づきゐたり    …山中の藪紫は金鉱山指標植物。











2016年7月21日木曜日

大蔵經



水戸市内から、漢訳仏典「大正新脩大藏經」のうち78巻が出てきた。
店主がこの夏の猛暑のある日、譲り受けた。

水戸大空襲時には、市内から馬車で、那珂へ避難したそうだ。
それだけに旧蔵のかたには思い入れ深い、貴重な書籍だ。
店主は売れないかもしれない。
アーカイブするにとどまるかもしれない。

大正新脩大蔵經は、大正から昭和戦前にかけて、
日本各地に残存していた各種の漢訳仏典をすべて調査校合した、
民間人の手になる「漢訳仏典の総集」だ。

正蔵(中国所伝)55巻、
続蔵(日本撰述)30巻、
別巻15巻(図像部12巻、昭和法宝総目録3巻)の全100巻から成り、
漢訳の仏典の最高峰と呼ばれている。
校訂不備多しとの批判はあるものの、
世界における仏教界や仏教研究に寄与しているそうだ。

振り返れば、
蜀版開宝蔵、
高麗大蔵、
契丹蔵、
金蔵、
宋湖州版、
元弘法版、
元普寧版、
明洪武南版、
明北版、
明径山蔵などを経て、
近代仏教学の成果を踏まえつつ、
大乗経典の五部(般若・宝積・大集・華厳・涅槃)を筆頭に持ってくる,
伝統的な中国大蔵経の構成を廃し、
『阿含経』を筆頭に,年代順・地域順に並べる合理的な構成、という。

運びながら、三蔵法師を思う。
三蔵法師は、「経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)」のこと。
訳経僧を指していう。単に「三蔵」と呼ぶこともある。
日本人僧の中で唯一「三蔵」の称号を与えられたのが、近江出身の興福寺僧・霊仙。

三蔵のひとり、西遊記のモデル、玄奘三蔵は、出国後16年を経た645年に、
657部の経典を長安に持ち帰った。
玄奘の前世は、釈迦如来の二の弟子、金?子(こんぜんし)。
説法を聞かず、教えを軽んじたために東土に転生した。

仏教の経典。
かぎりない叡智がこの中にあるのだ。
知らぬこの世と彼岸の法則がこのなかにあるのだ。
僧侶と呼ばれるひとびとは、どのように接近してきたのだろうか。

78冊とどう対処してよいかわからぬ。
売っていけない気がする。
昔読んだ、阿川弘之の「志賀直哉」に、
祖父が死んだときに志賀直哉は、
「急に、家の中が安っぽくなった」と感じた、とあったが、
大蔵経を失へば、店主の精神世界にも、
ぽっかりと穴が空きそうだ。

ただ、
この縁をひたすら、大切なものと思いたい。













2016年7月17日日曜日

狭竹物部(さたけのもののべ)




御礼詣でに、日曜朝、瓜連の静神社に昇殿祈祷する。
数ヶ月にわたる懸案がようやく決着したからだ。

宮司さんと直接お話ができた。
佐竹の先祖は、古代に遡るそうだ。

狭竹物部(さたけのもののべ)という名が「久自国造」氏族に見える。
物部の祖はニギハヤヒであり、鳥海山に降臨し、東国平定のち畿内に進んだ。
一方で、那須から、那珂川や利根川沿いに降り、鹿島にいたった。
飯富の大井神社、潮来の大生神社は重要な場所だというのだ。

久慈に君臨した狭竹物部にとって、、常陸太田の馬場八幡はその聖地であり、
さらに飛んで、「梵天山古墳」こそ、本来の佐竹の聖地であろうとのことだった。

源義光ほかの武力集団ががそののち、
この地を治めた際に、佐竹と名乗ったのは、物部狭竹を乗っ取ったからだ。

三つの願いを伝えつつ、この地を、自らの手で「開くこと」という洞察を得た。
中世を超えて、昇殿参拝を通して、古代にダイブした。
奥久慈の人々とのつながりを、大切にせねばならぬ。










2016年7月10日日曜日


 偶 々
梅干古りて 鹽(しほ)凝まりて 大暑過ぐ
鹽尻てふ 鹽街道の終はりの 速蜻蛉
すいれんは 水のけむりの ひかりかな          …大宮親水公園 
惹き合ふは 前(さき)の記憶かもしれぬ 織女光
其の夏に 鹽凝る荒地に 放擲さる




                              (歴史館の古代蓮)










2016年7月1日金曜日

偶 々



 けふより七月

月たちて 萬象萬緑 さんざめく
前世は さびしかるかな 速蜻蛉
惹き合ふは 前(さき)の記憶かもしれぬ 織女光 
あじさゐや 其の羅の 肩細き