2016年9月25日日曜日

信州飯綱三水特A


信州のお米はやっぱりおいしいのだとわかりました。
奥信濃、黒姫在住の美術家のかたに教えていただいた、
地域ブランド米「飯綱三水特A」。
寒暖差が激しく、冬場は豪雪となるきびしい自然と
飯綱、戸隠、黒姫などの山々の水で育ったお米なんですね。
特Aはおいしさの基準で、最高点の意味。
その産地は、新潟は5地域の、信州は2地域あります。
残念ですが、茨城県にはありません。
炊き上がりの香りが違いました。つやもはりも違いました。
お米は信州。










2016年9月24日土曜日

偶 々

    偶 々

紫蘇の實や 径(みち)はミとチで 出來てゐる 
龝の土 ブラウンライフと 云ふひかり
龝櫻草は はじらふ天使 遥くらら
約束は 信じるてふ意味 梅擬
八幡太郎が 独騎横切る 龝花野(あきはなぬ)

腐孔(あな)穿がつ アルマイトの底 彼岸過ぎ
赤き實に 朝雨過ぎゆ 梅擬
しら萩咲き 約束の未來 奠(さだ)まれり
金時計すれば  蚊蝿(かばえ)で在りし 底方(そこひ)知る
龝暮れて 古本屋骨董屋嗤ひ 骨董屋屑屋嗤ふ 

大硝子 コツプで掬ふ 秋の水
奥信濃 飯綱三水(いいづなさみづ)米 今朝の龝
穐黴雨(あきつひり) 木樵朦朧體と なり隱る
秋雨に 朦朧體の 歸樵哉
いつまでも ほてりはやまぬ 九月盡



     












2016年9月23日金曜日

界 隈












                                 (那珂市東木倉)

2016年9月18日日曜日

偶 々


昏れがたの 洋梨(なし)の皮(ひ)のうへ  日の名殘(なごり)
黄落(かうらく)は 水の底まで 貴種流離譚(きしゆるうりたん)
月讀(つくよみ)の 森神錆ぶりて 雫(しづく)れる
少女へと 還(か)へるはありやと 月ノ宮
龝花野(あきはなぬ) 抱へて來たよ 詩なくれど
馨妙(かぐは)しき 梨の實に日は 落ちゆけり




日曜朝7時40分ごろからの
JWAVEワンダービジョンをいつも聞いている。
料理家の野村有里の料理コーナーがとても面白い。
今朝は、写真家の若木信吾がゲストだった。
いつものように言葉の採集をしてみると…

   撮影するとき、撮る側の意識が写りこんでしまうものですよ。
   写真に写っているのは、撮影者自身です。











2016年9月16日金曜日

露伴



中村草田男の代表作は本歌取りだった。

    万緑の中や吾子の歯の生えそむる

は、あろうことか服部嵐雪の句だった。
 
    竹の子や児の歯ぐきのうつくしき    (「炭俵」より)

嵐雪の句はさらに、本歌取りだった。

    源氏物語横笛巻、薫の君の児なりしとき筍を食するさまを―。

と露伴が「評釈炭俵」で注釈していた。
代表作が本歌取りだったことを、
俳句界の人々はどう受け止めるのだろう。


幸田露伴の「評釈----」は芭蕉七部集すべての句に、注釈したものだ。
加藤郁乎は「江戸俳諧」そのほかで、
露伴の俳諧研究の姿勢を賛嘆していた。

正岡子規の東京帝国大学時代の分類俳句大観の膨大な分類考証とともに
屈指の強脳の露伴が、知におぼれず、
七部集の逐語的考証を行っていたことを、
後代俳人は学ぶべき、と書いていたが、そう思う。

実作を前にした俳諧研究は、復本一郎のいうように、
地味で、途方もない努力の、積み重ねなのだ。
新しい「視点」を発見しようとする意欲だ。
「視点」は「表現の新しさ」につながる。




















2016年9月15日木曜日

アニミズム




哲人・山尾三省の「カミを詠んだ一茶の俳句」を読む。
俳人一茶の句を通底するというアニミズムを読み解く試みだ。
最終的には山尾の仏教、インド哲学への言及、を避けることはできなかったが、
俳句のアニミズムについて、
十分すぎる理解を与えてくれた。


森羅万象には霊魂が宿り、それがカミと呼ばれる。
山尾が語る。

 季語の背後には、季節という大いなるカミが巡っている。
 そのカミはさらに地球、太陽系、銀河系の大いなるカミに直結してある。

 季語を入れねばならない無言の約束の背後には、
 季節の諸現象というカミガミの無限な営みを、
 詠む詩の形式だという共同幻想があった。

 俳句は、中核に、季語というカミを必須の条件として要請している。
 無季にあっても、季語に代わる何かのカミが詠み込まれている。

 俳句は、その詠まれた風景が、カミと呼びうるほどに深いものとして現れるときに、
 結果として佳句として、成就する。
 無意識的にせよ、カミを感受して詠んだときに、成就するものだ。
 その瞬間を逃さず定着する、万人に開かれた文学形式である。

 小学生でも俳句はつくる。
 季語という約束を踏んで詠むとき、
 一茶と同じく、それと明確に自覚しないままに、
 子どもたちのパーソナルな、小さなカミガミに、
 事実としてかかわっているのである。


こうした前提に一章を費やし、かなり詳しく明瞭にして、一茶の句に入っていく。
 
 蝶とぶや しなののおくの 草履道

山尾はこの句に、蝶にあらわれたカミを見るのだ。


アニミズムによって、俳句は、新しい局面に入っている。
近年の関心の高まりによって
小澤實だけではなく、山尾三省によっても、
俳句の存在理由が明白にされていく。
山尾は小澤への共感も書いている。
だが「異界」については、小澤が信大学生時代に、
民俗学の小松和彦が人文学部の助手としていたのも大きいのではないか。
金子兜太のいうアニミズムは後付けのようなもので、
本人はそれまで無意識、なにしろ、サヨクの俳人は、社会転覆ばかり考えていた。

俳句とアニミズムについての言及はすばらしい。
それまでの句をつくるうえでのもどかしさを解消してくれたのだから。
ぼくらは、カミガミと触れたとき、実に幸福なのだ。
山尾はそう言っている。

                                                                  (蕎麦、水戸農高構内)




















ハービー山口の言葉。




写真集「代官山17番地」のハービー山口さんの言葉。
抜粋。
「よい写真とはなにか」について、気づいた折々に残していた。


続けることが大切だ。撮れなからといってあきらめてはいけない。
やっと撮れて偶然撮れてその積み重ねの上に写真家は存在している。
時間がかかっても良いではないか!

見る人に元気や勇気を与えてくれる写真。

自分が知らなかったこと、新しいことに気付かせてくれる写真。

ものごとの本質、真理を語っている写真。

ポートレートの場合被写体と撮影者との関係性が見えてくる写真。
つまりその撮影者にしか見せない表情を捉えた写真。
言い替えれば、その撮影者にしか見えない表情を捉えた写真。

ポートレートの場合,
被写体となっている人が、
それまでどう生きてきたかまでを感じさせる写真。

テクニックは大切ですが、それに加えて写真家の人格をぶつけて撮れた写真。
この人格があってこの写真が撮れたんだなと納得する写真。

疲れ弱った心に一条のひかりを与え、
生きてみようと思わせてくれる写真。

全ての写真には当てはまらないと思いますが、
クラシックなのにアバンギャルドに見えたり、
またアバンギャルドなのにクラシックに見えたりもする写真。
たまにこうした作品に出会いますが,
手法を越えたところで心に訴えてきます。
一つの到達点でしょうか。

かつて20代の頃、人並みに寂しかった時に、
幸せそうな人や、美しい人々や光景の写真を撮ることで、
僕自身が救われてきたけれど、
今、そうした写真で誰かを救えたらなと思います。

どんな写真を撮ったか。
それは写真家がどんな被写体を見つけたかにより、
それはにどんな好奇心、テーマを持っているかにより、
それはにどんな精神性を持っているかにより、
突き詰めるとどんな人間なのかにたどり着く気がする。

写真家のセンスとは、被写体にどれだけの物語性を見つけ感じとれるかだ。

僕がプロとして仕事がもらえたのは30歳近く。
それまではどこか極貧を若さで楽しみつつ、
撮りたいロンドンの街や人々を懸命に撮っていた。
プロだと収入の良い撮影をつい優先してしまいがち。

振り返ると「収入ではなく撮りたい写真」を沢山撮れて良かった。

昨日キヤノンで瀬戸正人さんと講座を開きました。
残った言葉は、
1、全ては自身の心に聞け。
2、発表された写真は、作家から離れ、見た人のものになって心にしまわれる。

かつて植田正治さんが
「東京に来る度に新しいデザインの服を何着も買うんです。
それを着ることで現代に生きる自分になれるんです!」
と仰ったのを覚えています。
人それぞれの新陳代謝方法があるんですね。

5秒間以上じっくりと見続けることが出来る写真。

                                    (輕井澤町長倉)
















2016年9月6日火曜日

パプリカ




水戸市河和田の農産物直売所「つちっこ」で販売されている小ぶりなパプリカ。
生産は水戸市内の農家。
野菜でもネオテニーがおもしろがられているのかもしれない。


プチパプリカ

ぱぷりかのプラステイツクな手觸りに何處か未來の食物思ほゆ
幼態成熟とは此の国の病ひかぷちぱぷりかの屈託なき幸福の見ゆ
炭酸とびたみんからあを食べる午後からだのなかを晩夏過ぎ行く













2016年9月4日日曜日

界 隈


















偶 々


  偶 々

龝艸(あきくさ)の ふくらめる穹蒼(そら) 風たくはふ
艸の穹蒼 氣團孕めば 野分近し                       …穹蒼はアーチの意。
野より靑 落ちて穐錆ぶ 草の色
黄に熟れる 梨果と空との あひだかな
黄金田へ 正中線伸ぶ 月夜かな
石の塔は 天地水焔(あめつちみづひ)と風 の秋 …五輪塔の意味を知る
祇(くにつかみ) 月讀の森 雫(しづく)れる     …八幡神を遡る
夏果てて 玫瑰(はまなす)の實の 赤きかな
靑落ちて ひかり秋錆ぶ 野と草と

                             
                    アキノキリンソウ属ソリダゴ(ゴールデンロッド)

 











界 隈















2016年9月3日土曜日

光の階調



高山正隆の「楽器を持てる女」(1925)が、
広隆寺の国宝「弥勒菩薩」の横顔とよく似ていることに気づいた。
高山は意識していたのだろうか、していなかったのだろうか。
作品のイメージの源がどこにあるか、意識的な作家は少ないだろう。

高山は、明治末から大正まで、
さらに昭和になって植田正治が「白い風」で引き継いだ、
写真の潮流「ピクトリアリスム」の写真家の、主要なひとりだ。
ピクトリアリスムは「写真の絵画主義」と訳される。

「ベス単派」の彼らの目指していたものは、

 絵画に近似してはいるものの、
 絵画の手技の代わりに、
 光線とレンズ、印画紙を用いる。

福原信三はピクトリアリスムを、
「光と其の階調」の表現、と位置づけた。
光にはにじむような階調があって、その諧調の美しさを表現したい。
1920-30年にピークを迎えた。

その後は土門拳などの目玉のぎょろりとした連中、
社会主義、自然主義に負けてゆくのではあるけれど、
軟調レンズによる柔らかさの表現は、
日本美術における横山大観らの「朦朧体」と同じものかもしれない。

 モノと光のあいだには境界がないこと。
 エーテルが媒介していること。
 にじむことはつながること。
 階調はごく自然なこと。

軟調の「楽器を持てる女」は何を表現しようとしたのか。
弥勒菩薩の
「梵」だろうか、
「巴」だろうか。
それは、「慈しみ」ということではなかったろうか。


                      「1920-1945」(写真弘社)より