2016年10月30日日曜日

偶 々

藍の花

未來帖 風に闢(ひら)けば 一葉ちる
銀嶺へ 蝦夷鹿の迪(みち) 續きたり
さみどりは 芹一茎の 煮ゆる間の
土にひそみ だしぬひてみたり 李もみぢ
橄欖(かんらん)は 遠き空から 零(ふ)る龝光(しうかう)

名を持たば 卑草に非ず 末枯野(うらがれの)
月の盈(み)つ 晝は惑ひの 斷ち難し
もみぢなす なつはぜ迪の 夕明かり
黒き實は 不穏なるかな はぜもみぢ
水分(みまくり)は みづかありなむ 妙見祀(みやうけんさひ)

殘生(ざんせう)の 幾許(いくばく)あらぬ 一葉ちる










2016年10月29日土曜日

高安国世


冷たい雨降る夜半に起き出して、アララギの高安国世の短歌を読む。
初期の1945年頃の歌。
自我を強烈に出すことのいそがしさにかまびす現代短歌から隔絶した感があった。

  深きしげり出でて仰ぎぬ木幡山いま夕光の淡きみどりを
  色となき空ひといろに見えてをり風凪ぎはてし夕の窓に
  もろこしの葉むら茂れる窓の外は暮れし暫く白き光あり
  しずかなる光満ちくるわが庭のひともと樅の陰の中にをり

「見えるもの」を詠うのではなく、
眼前の形象を通して、
そのかなたに暗示される非在の本質へと迫った、
リルケ研究の成果。
リルケ「ロダン」の解説文で、高安が書く。

 その対象の本質に直入し、
 その物自身をして、
 その内から歌いださせようとしたことは、
 多くの詩から知られる。

この考えを、自らの短歌へと転換させていった高安の努力。










2016年10月27日木曜日

偶 々


すさまじや 憤怒こそ縁 斷つるかな 
沙金散らす 妙見祀る 水分(みまくり)へ
さみどりは 芹一茎の 煮ゆる間の
一葉ちる 豫感は薄日 中微熱
銀木犀 馨は渇風(かつぷう)に すさびたり
唐突に 泊夫藍(さふらん)週閒 はじまれり
贅を云ふ 葉殘す黄柚子の 實もぐれと
くれなゐに 滲ぢむすももの もみじかな










2016年10月24日月曜日

偶 々



月の盈つ 晝は惑ひが 斷ち難し
茜さす 金の指輪の 三瓦蘭姆(ぐらむ)
十月や 贋物てふ心理 奇怪(きつかい)なる
木の葉散る てのひらのうへ 塩むすび
白障子 觸るれば傳ふ 微熱かな













2016年10月18日火曜日

きくちつねこの場所

水戸市那珂川の雨の朝


大正生まれで、北茨城大津港の、俳誌「蘭」の主宰だった、
きくちつねこは、周囲から魅力的な女流俳人だったようだ。
存命中に、わたしがもっと俳に理解があったなら、
取材を名目に親しくなれたはずだ。残念だ。
加えて、水戸から渋滞の日立を抜けてゆくのは折れる。

きくちつねこが通った女学校は、わたしの磐高の、渓をはさんだ東側にあった。
平駅から鉄路を超えて、旧城跡を抜けていく通学路は、
男子高、女子高の生徒が、双方を意識しながら同じ方向に歩いた。懐かしい。

吟行のお気に入りの場所を時々、句集、自註句集で披瀝していた。
落鮎の、ちょうどこれからの季節は、
いわき市沼部がお気に入りだった。
阿武隈山系の入り口の、山に囲まれた集落。
わたしも何度も通った場所だから、よく知っているので、驚く。
北茨城、高萩の山の中にもよく入ったようだ。
わたしにもなじみのある土地で、
佳句を生み出していったのだということだけでも、うれしい。

それにしても、
思いを最後まで秘めた息苦しさ……が、
きくちつねこの俳を支配している。
二〇年も寝たきりだった、
前主宰の野沢節子の激しさとは
句の傾向は、正反対に、丸ろいけれど、しかし。
たとえば、
 
  肌にのこるおもひや雨の濃あじさゐ
  青葡萄身ぬちに泉あるを覚ゆ
  草の色濃うする雨や逢うを約す
  別れすぐあるを火鉢の炭つぐ
  火の紐を結び結びて曼珠沙華
  逢えば身に力加わりし雁渡し
 
一度短い結婚生活はあったが、
自身は最後まで清廉なひとであった。
しかし、このような艶な句が、つやかしい一方で息苦しい。

 迸るものをおさへつ居待月

息苦しさを解き放つことはできなかったものか。










2016年10月14日金曜日

偶 々

やまぼうしの紅葉


龝出水(あきでみづ) みづ掬ひつつ あたらしぶ
銀木犀 縁(えにし)は馨(かほり)  かも知れぬ
橡の實採る 村の老婆は 疾(と)く走る
銀霙(ぎんみぞれ) 山国の家は 頑丈(ぐわんじやう)なんだ
賢三の 外套三島 由紀夫かな

緘黙の 秋の一日(ひとひ)も ありにけり
目蔭(まかげ)して 龝の空虚(から)空  仰ぎゐる
十三夜 ひかりは艸の うらへ廻る
川底の 錆鮎ほろび 山師ほろぶ  
川魚ほろび 山師もほろぶ 薄日なか
紫蘇辣薤 茗荷薑 唐芥子(しそらくきやうみやうがはぢかみたうがらし)










2016年10月7日金曜日

鶏頭の十四五本もありぬべし


                       米は長野県飯綱三水特A新米3合半。
                       茄子(日本農業実践学園直売所)の朝漬。
                       柚子味噌(同)。



さまざまに論のある、

鶏頭の十四五本もありぬべし

という正岡子規の句を、
高濱虚子は、最後までまったく認めなかったそうだが、
子規が帝国大学時代から二十歳代前半に精力を注いだ「分類俳句大観」を開いてみれば、
江戸俳諧より地道に地味に抽出した「鶏頭」の句は百句を超えているのが事実。
抽出したのは子規本人であって、
ほかのだれでもない。
翻って、
「虚子さん、あんたは、それができたかね」
と、素朴にたずねてみたい。
百句も抜くことができれば、
鶏頭の本質を貫くまなざしを、
得ることができたに違いない。

なお、山尾三省によると、

弟子がずいぶんいるなあ、という意味らしい。
明治の毬栗頭、あるいは鶏冠のような刈上げ頭が、
いくつも座敷にあるのに感じたようだ。



















2016年10月6日木曜日

現代詩手帖10月号特集「詩の生まれる場所」





現代詩手帖10月号は、「詩の生まれる場所」が特集され、
さながら詩歌専門古書店へのオマージュともいうべきものになっている。
同業のものとしては、共感できる部分が多数あった。
なにしろ、街の古書店、ギャラリーを併設している古書店、画廊、リトルプレスの人々などが
これでもかというほど主役として登場し、詩歌への思いを語っている。
「詩の生まれる場所」が古書店ばかりではなかろうが、
むしろ「詩の保管庫」であろうけれども。
まあ、おもしろい。おもしろい。
仲間があちこちにいるんだなあ。



ジュンク堂池袋店の田野清香は、

  短歌がよく売れる。週末に売れる。

タイトルの店主、辻山良雄は、

  本屋は言葉を扱う場所。言葉を展示する、可能性を探りたい。

恵比寿のナヂィッフの芦野公昭は、

  うちの店がどういう詩を扱うかではなく、うちが詩なんです。

杉並の葉月ホールハウスの岩河悦子は、

  詩のイベントを開くことは、本を一冊企画することに似ている。

三鷹の水中書店の今野真は、

  街の古本屋で、詩を売りたいんだ。

大阪の葉ね文庫の池上規公子は、

  短歌や俳句の作り手が来店するだけで、客数が保てるものです。

熊本の長崎書店の児玉真也は、

  詩集を、小説の棚のあいだに、紛れ込ませてはどうか、と思いついたんだ。


歌人・穂村弘と紀伊国屋書店・梅崎実奈の対談で、
最後に放った梅崎の言葉が、
詩歌の本屋の仕事の後ろにあるものを示しているようでもあった。
梅崎はこう語って締めた。
 
 でも、ほんとうのことを言うと、
 ただ単純にお客さんのために、
 よい書棚をつくりたい、と思っているわけではない。
 詩歌ジャンルの発展のためとかの使命感でもない。
 売れたらそれで満足して終わりか、というとそうじゃない。
 それより、もっと大きなものを意識していないと、思考停止してしまう気がする。
 もっと大きなものって、
 言葉そのものや、
 生きることや死について考えることで、
 やっぱり魂につながっている話、だと思います。


新聞社時代は、仮名遣いについて考えていた。
書体デザインの視覚的魅力の源について考えていた。
組版の魅力的なレイアウトをいつも意識していた。
一方、失職したあとも継続しているのは、
日本語の意味、古い意味との出合いを求めていることだ。
たぶん、梅崎はもっともっと深いところでの言葉との絆のことを言っているのだ。 










                                                                    (6日の朝焼け 南方向)
 






2016年10月5日水曜日


  
 雨そぼそぼ 辻蝋燭に 草の花      蘭更

開発が進めば、辻はなくなる。
しかし、幻視のように、そこに確かにあった過去の地形、辻が見える。
作家の古井由吉はそれを、既視感を覚えたからに違いない、と書く。

 だれでも意識下にあると思う。
 その土地に流入してきた人間で、
 そんなに長い年月が経っているわけではないし、
 土地の由来も知らないけれども、
 かつての辻らしいところに来たのだと感じるのは、
 どうも既視感のせいらしい。
 一瞬、デジャビュが濃厚になるらしい。(文藝2012,夏)

白川靜の「字統」によると、
辻は十字路であって、
古くは「つむじ」と訓されている。
日本の辻は町はずれにある。
他所の人間がそこから入ってくる。
あの世も含めて、異境の人間たちと出会う場所という。