2016年11月30日水曜日

異人としての俳人


俳句をつくるときの気分を翻るとき、
そこにあるのは「解脱的寂滅的調和」の感情だと、俳人の大須賀乙字が言う。
次のように書いている。

 作句においては、情趣を瞑想し、
 その情趣を呼ぶ重要な概念を探りつつ按排する。
 精神活動がほとんど無意識の飽和状態に入る瞬間、
 つまり自己と外物との関係をわすれたるとき、
 われらはもっとも審美感情を得ることができる。
 静的な審美的な俳句形式が生まれたのは、
 芭蕉そのほかの遁逃者の手によってもっぱら、
 発達を遂げたのは偶然ではない。

句ができあがるとき、巧拙はあれ、一種の観照状態にある。
さらに、その観照状態を生むための努力をしている「遁逃者」たちによって発達した。
乙字の指摘は受け入れなければならない。
同じような記述を小澤實の「俳句のはじまる場所」(角川選書)に見いだす。

 江戸期の俳人はなすべきことがあった。
 笠をかぶって行脚しなければならなかった。
 中世の隠者の流れを引いているのである。
 士農工商の社会の外に出て、異人として生きねばならなかった。
 そのような生き方をしているからこそ見えるものがある。
                       「写生とは何か」

通常の社会の外側にいることは苦しいことだから、
よい意味で書かれているわけではないのは自明だが、
「遮断」が作品を作れるということは、経験で多くの人は理解している。
このような自覚をもって、健全な社会生活を続けなければならない。
そうしなければ、ならない。
そうしなければ、井月のように野たれ死ぬ。

在学期間は重なっていないが、大学の先輩の小澤の論は、評価されている。
その理由はいくつかあるだろうが、博士課程を満期で終え、
日本文学について、正確で豊富な知識、を持っていることが歓迎されている文学者だからだろう。
短兵急な俳句作家だけにとどまらないところにあるのだ。
小澤の俳論については改めて書く。











2016年11月27日日曜日

大須賀乙字の造型美術論


さまざまな俳論を読むことで、視野が広くなるように思う。
俳句史にあって特異な位置にある大須賀乙字は、
俳句は造型美術、なのだという。
俳論「日本特有の詩形」を読む。


 俳句は、概念の配合配列をもってさまざまな情趣を暗示させる。
 外界と自己との関係を忘却し、
 外物相互の、色形上の、対照均整より起こる感情を味わう、
 「造型美術」である。

 突飛な刹那的概念融合は短詩形の特色であり、
 象形文字を借りて、一瞥直覚的に恃むとする。

 和歌は、ほぼ純粋の大和言葉によって歌われる。
 俳句は、全然資格に訴える日本式漢詩の修辞法を襲って発達した。

 言語は本来、実在的像を絵画のように直接表現できないはずだが、
 概念に分岐することで、ある程度まで実在像を写すことができる。

 したがって、
 もっぱら視覚の理解によらんとする俳句は、
 概念の配列を主となければならぬ。


最短17文字は、「視覚」に訴える視覚芸術だという。
漢字と仮名の視覚のイメージ、内容のイメージ、が重なることで、
詩的な世界が生まれる。
文字の表面と裏側のイメージの合作。
絵画的世界が出来上がる。

蕪村は画人だった。
漱石も絵を描いた。
写真家浅井慎平の俳句がなぜこれほど人気なのか。
俳画という世界もある。

言葉でつくる絵画が俳句。
だから俳句はビジュアルアート。
大須賀はそう言っているようだ。

重要だとされる大須賀の象徴論は、次の機会に。










2016年11月25日金曜日

大峯あきら


俳人で哲学者で真宗僧侶の大峯あきらが、次のように言っている。

 すべてのモノは、季節のうちにある。
 わたしを貫いている推移と循環のリズムのことである。
 モノはこれから自由になれない。
 モノは季節的存在である。   
                

堂々とした言葉だ。
自然に応ずることは、後ろめたいことではない。
怠け者、と後ろ指指されることでは決してない。
自然に感応しがちなひとにとって、
俳句は、怠け者という呪縛を取るために必要だ。
だからといって、
単なる写生やスケッチじゃ物足りない。
モノに応じて、モノに感じ、
考えて、悪戦苦闘して、突き抜けた瞬間が俳なんだと。
そう言っている。

 季節の詩においては、
 われわれは決して宇宙の中心ではない。
 すべての物たちと共に、
 一つの宇宙線によって貫かれているのである。 (詩歌文学館賞受賞挨拶)

大峯あきらは、口をすっぱくしつつ同じ言葉を言い、私はそれを繰り返し読む。


                                                                                (千波公園の楓)










2016年11月23日水曜日

御岩山


日立市入四間(いりしけん)の標高500mの御岩山山頂。
最近、パワースポットとして、知られるようになった。
アポロの宇宙飛行士が宇宙から、
この地から光の柱が立っているのを目撃したとか。

山頂の西の突端に、まるで岩のソファーのような場所がある。
ひと一人座れるほどの狭い窪み。
そこから妙義、浅間、赤城、那須が眺望できる。

この岩のソファーにしばらく座るだけで、
疲労が消えた。
爽快感、気分のよさが生じてきた。
これがパワースポットの意味か。
かような不思議体験をした。

しかし、山中も境内にも、
おかしな連中がうろつきはじめたようだ。
女子を追っかけて登っていく一見アスリート風の男。
いかに不思議な場所か吹聴している頭がおかしい男。
ご注意を。



























2016年11月20日日曜日

山中智恵子の星のうた


昭和56年刊行の山中智恵子の歌集「短歌行」を読む。
3年間に詠んだ歌が集められているが、
やはり星の歌が圧倒的に多い。
くらしの中で、星の動きを常に感じ取っていたというべきか。
心と星のめぐりが官能的に観応しているというべきか。
不思議なうたが並んでいる。

  さくら咲く北の妙見七つ星船星みえてたゆたうごとし
  心の上たなびくものを手繰りゆく糸掛け星に春深みたり
  土師連(はじのむら)八島に降りし夏火星父の声すも杳き童謡(わざうた)
  麦の笛冴え残りたり八月のヴェガすずしく曇る方に昇らむ
  さやぎたつことばのゆゑによるべなきむらとに落ちし風の星はも
  海彦(あまひこ)をよびゐるときにシリウスを雪星といひ人の駆けゆく
  木枯らしのみちの長路に目守らなむ友よ草嶺のアルデバランを

心が鎮まると、星に気づく。

                                        (楮川ダムで欅紅葉)










2016年11月19日土曜日

偶 々


茜草其のくれなゐの繊(そひやか)に
たまちはふ金砂山は睡(ね)ぶらざる 
やはらかき金約(ちぎ)る如柞(ははそ)黄葉(もみぢば)
曄(あからか)な夕光迎へつ冬の窗
倭なるわれ待てる椿散る勿勤(なゆめ)
みづ瀞(きよ)く沈(しづ)く黄葉稍(しづ)まれり
蓮根の村へいつたことはあるか穏やかだ











2016年11月12日土曜日

偶 々



偶 々

天狼や千年魄は滅びずと
百済野を見霽かしたり金砂神
冬顕ちぬ不空羂索観音菩薩(ふくふけんさくかんのんぼさつ)白玉の
ゆふぐれはさゐさゐとして冬顕ちぬ
輾調は幸せな結末寒昂
昏き海を傳ふる深く鯨吼へ
山國の團栗でかしでかしかな
冬ざるる千早振る神聲を聽け    …「金砂軍記」発掘で
ちはやぶる金砂神が山眠らず
天狼や頼朝の斷念知りゐたる
日吉権現靉(あい)たるる日の冬霞
迂闊なる抒情遮へぐる銀の嶺
白障子に微熱傳染(うつ)して水仙花
美しきナチ軍服が來る冬曇  …ナチスのデザインは否定できないと
瞠(めひら)けば震る寒星の觸らる程
抒情とは迂闊なるかな銀の嶺
千年の諦念凍る散木奇歌集
和音を探してゐるんだ落ち葉のうへで
                                                                      (県民の森にて)










2016年11月11日金曜日

金砂軍談写本


「吾妻鏡」に治承4年(1180)秋に記述される出来事は、
頼朝の金砂城攻めだ。4箇所。しかし、記述はわずかな文でしかない。

平安末期、平氏を滅ぼした後の源頼朝が、
奥州にあった源義経の反乱に応じようとした常陸国支配者佐竹氏を
西金砂山に攻めた史実を書いた「金砂軍談」の万延元年の写本が見つかった。
原本は茨城大学が所蔵している。
書いた人物は、旧水府村町田の修験道者。
佐竹側からの視点で描かれている。
頼朝勢を防いだ「一族」の氏姓が次々登場する。
それらのひとびとの多くは、常陸国の今に繋がる、血脈。
姓を持ち、名を持ち、
頼朝の血を血とも思わぬ残虐ぶりに抗した、
けなげな英雄的行為だと思える。
揚げてみる。

平賀冠者盛秀
酒出六郎義茂
酒出八郎助義
稲木右馬介義清
関帯刀昌成
老臣小野崎河内
大塚民部
松岡弥太郎
中條幸之助
野口但馬
大縄三郎
黒澤左近
小貫大蔵
関主馬
滝六郎
以下、金砂山に篭城し、鎌倉勢に抗したのは二万八千人。

これらの子孫が今も、消長あれど、常陸国ほかに生きているという事実に驚く。
神風のように、一度は鎌倉勢を打ち破った佐竹勢にとって、
金砂は聖地と呼んでかまわない。
金砂の加護だ。
守ったのは、「山王日吉権現」だという。
たとえば、

  無罪の佐竹氏を滅亡せんとは僻事
  殊に金砂は日吉山王の垂迹
  東国鎮護の霊山に千才(矛)を交え
  峰を穢し戦場屽岶(かんぱく)と成す大罪の狼藉なり
  神罰争か遁る可ん哉
  霊験成ると忽ち多聞天摩利支天仏体現じ
  大空を祈り給わば
  俄に悪風起こり
  四方黒雲靉(お)き稲妻震動
  雷雲雨は大龍降るが如く

という記述。
日吉山王の聖地に、
日吉権現とともに、
多聞天、摩利支天が、調伏のために仏体を現したのだ。

山王権現(さんのうごんげん)は、
日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神。
天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。
最澄は、天台山国清寺に倣って、比叡山延暦寺の地主神として山王権現を祀った。

神風を吹かせた多聞天は、
持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神だ。

同じく摩利支天は太陽や月の光線を意味する。
陽炎(かげろう)を神格化した存在。
「隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有す」とか。
この特性から、武士の間には明確に「摩利支天信仰」があったらしい。
護身、蓄財などの神として、日本で中世以降信仰を集めた。
南朝の楠木正成は、兜の中に、摩利支天の小像を篭めていた伝えもある。

武は宗教とともにあった。
東国の、奥常陸の武士たちの強烈な精神生活を、
伺い知ることのできる貴重な伝書に違いない。





















2016年11月8日火曜日

石橋辰之助「山暦」


昭和26年刊の畦地梅太郎の木版画で装丁された石橋辰之助の句集「山暦」を読む。
わたくしは、詩では、四季派の田中冬二の素朴な田舎詠が好きだが、
石橋の句は山行を場とする自然詠。田中と重なるものも感じた。
しかも明瞭で透徹した山々への視点に、優れた詩性も感じることができた。

  穂高岳真つ向かふにして岩魚釣

は遠近が効いたよい句だ。
信州に住めば、雲の上に北アルプスがあることに驚くだろう。
山々は常に人に迫ってくるものなのだ。

  光(かげ)の玉樹氷に隕ちつ地に弾く

は冬山でしか知ることができない。
師の「馬酔木」の水原秋桜子は、一時、山々の句を読んだが、次第に都会詠に沈んだ。
「山岳俳句」と呼ばれるが、
山岳への優位性におぼれていないことは書かねばならない。
単なる山男、ではないと。
ホトトギス時代からの写生ぶりが丁寧であることに驚くだろう。
ものの本質を丁寧に見詰める、という虚子の伝統をひたすらに守っている。

  諏訪の町湖(うみ)もろともに凍てにけり

晴れていたとしても、真冬の諏訪湖畔の町はどうしやうもないほど氷ったままだ。
氷点を越えない日が続くこともあるのだ。
高ボッチの頂に立てば、遠く富士山を見張晴るかしつつも、鉢底の鉛のような氷の町が見える。

  落葉松に雪解けの水せせらげり
  落つる日の嶺をはしれる樹氷かな
  白樺の葉濡れの月に径を得ぬ
  雪けむり立てど北斗はかかはらず
  融氷の音か日輪とどまれる

アニミズムの深みを石橋に見た。
厳しい自然が何かを目覚めさせるのだ。
サヨクにも突っ込み、前衛にも取り組んだが、
四〇歳で死んだ。












2016年11月7日月曜日

偶 々






銀の嶺 主役はひとに 非ざれり
形(あらは)れて 發(あらは)し象(かたど)る 冬の暁 ……空海より
もみじなす なつはぜ山斎(しま)の 夕明かり
冬北斗 妙見山は 沙金散らす
瞠(めひら)けば 震(ふ)る寒星の 觸(ふ)らばへり
夥し 冬の櫻に 顕(た)つ宿生木(ほよぎ)……ヤドリギの呪力に就いて
壱節(のつと) 冬の汽船は 死の如く
風立ちぬ 顕ちぬが正し いにしへの
美しき ナチ軍服の來る 冬曇……ナチ軍服の魔力に就いて
詩人こそ 信州の冬に 觸れねばならぬ








                                   (那須にて)