2017年12月27日水曜日

神 曲

阿蘭陀独活

彼岸を、
生きている間にこそ、思い出さねばならない。
思い出して、自分の業を知り、なすべきことをなし、
消すものは消し、死ぬべきだ。

思い出すすべは、この書にもある。
ダンテ・アリギエーリ「神曲」百歌を意訳した、
谷口江里也の「神曲」(1989)。
中でも「天国篇」は、
よい響きを持つ言葉であふれ、
全篇朗誦すべきと思う。
もちろん詩人としてのダンテ・アリギエーリの本質とは、違うかもしれない。
それでもだ。
密かに声に出して読む。

 どのように在るか、ということが、すべてなのです。
 わたしたちは、ここで、光る、のです。 

 ああ光が、よき魂たちが、こんなにもたくさん居たのだ。

幾つもの詩句がわたしを捉え、離さない。
加えて、
ポール・ギュスターヴ・ドレの銅版画が、
圧倒的な勢いで、
わたしに、改心を迫る。
天国篇というクライマックスが、
改心を迫る。

口語の名訳として知られる平川祐弘訳の結語は、

 太陽やもろもろの星を動かす愛であった。

だった。
谷口は次の言葉で締めた。

 わたしは、光の中にいた。












2017年12月25日月曜日

ding(もの)


文芸がひとの意識の進化のためにあるならば、
四大元素へのあこがれは、
季感表現を目的としている俳句の担う、
本質な一面かもしれない。
ding(もの)というドイツ語の概念があるそうだ。

箱根にはいま、オシリス神のエネルギーが降りているのだけれど、
山上へのあこがれとともに、
「ハトホルの書」(2006)に記されているシリウス衝動を、
形而上学として読んでいるが、
高次の気づきに至るための礎として、
「均衡のピラミッド」と呼ぶ、四つの要素があるらしい。

四つの底辺のひとつに挙げられていたのが、
土、水、火、気の四元素だそうだ。
大気、大地、水、火それぞれに、意識がある。
「聖なる四元素」とも呼ばれ、
その意識の存在たちと、感謝に基づく関係を築いていき、
創造のエネルギーへの理解が、ひとびとの意識の進化を助ける。

季感表現は、俳句の使命ではあるが、
季感という言葉に隠れているのは宗教感情だけれども
決して、原始的などという幼稚な表現は適さない。
人間存在の根源にかかわる大切なもの、
ding(もの)であった。

16世紀の医師・錬金術師パラケルススによる、
「ニンフ、シルフ、ピグミー、サラマンダー、その他の精霊についての書」は、
いたずらな書物ではない。
四大精霊は、地・水・風・火の四大元素の中に住まう、
目に見えない、それぞれを司る四種の霊だ。
パラケルススはそれらをding(もの)と呼んだのだ。

俳は、安易な身辺雑記ではなく、
ding(もの)へ、
四大精霊へ、
呼びかける文芸、ではないのか。
加えて、わたしたちの意識が精妙な層に、いたればいたるほど、
四大元素との接触が、力を受けとるようになる。
息づく意識としての自然は、
崇拝の対象なんだと、堂々としていればいい。

四大精霊へ、呼び掛ける文芸である。










2017年12月19日火曜日

臨済


臨済とは臨在か。
佐竹義篤創建の、城里の
臨済宗清音寺に、参禅する。
午前に3本。
即ち、香が盡きるまでの時間を、
三度座る。
素足で、窗を開け放てば、零下。
座りつつ、
幾つかの想念を練り、統一し、
世界へ、あるいはかの人へ、放つ。
思念に集中した3時間。
この集中、普段は、まったくありえない。
だとすれば、
思念の集中は、現実を作るちからが、ある。
確信した。


単純だった。
瞬間瞬間、毎日毎日、
何を体験したいのかを明確に、
首尾一貫して、
デザインする。
幸せをもたらすものを、探す。
上昇感、接続感、躍動感を得るものをだ。

光の周波数を呼び込み、
12のエネルギーセンターを開くこと。
それが光の柱。
12の進化する螺旋。

エネルギーを加速するなら、
朝昼晩に、右回りに33回転すること。
1日99回で、次元上昇が近づく。

意図。
呼吸。
光の柱。
身体回転。
たくさんの水を飲む。
大地とつながる。
地面に座る。

青写真、目的は、
近づくと、
興奮するのでわかる。
それで、目的と繋がる。











2017年12月16日土曜日

定義

窗から見下ろした楓
池澤夏樹が詩の定義、を書いている。
土曜日にひさしぶりに茨城大学図書館にゆき、
池澤夏樹の「池澤夏樹詩集成」(1996)を借りて読んだ。
そのあとがき。福永武彦の思い出も含めて。
大学図書館としては、
詩集が異様に充実している。
その理由は知っている。
半分は詩人星野徹の、蔵書だったものなのだ。
さて、定義とは、

 密度が高くて
 緻密で
 隙間なく構成されて
 響きがよくて
 美しい。

池澤夏樹の小説には、
そんなところもあるのではないか、とも思う。
特に書き出しは、詩のようだ。

詩を書くときには、
絶対に、
ミューズの加護が必要、だという。
瞬く間に、去ってゆくものでもある、という。












2017年12月14日木曜日

偶 々

月の夜に 清明(きよあきら)來ぬ 晴明(はれあきら)去ぬ
冴へ返る 高野へありよ とぶらへば
冬暁や 明星の法享く 吉備真備
陰陽頭(うらのかみ) 瘦せゆく冬の 靈(ひ)を纂む 
磐座は 冬の北斗の 聲(をと)が藏
御統(みすまる)へ 列石闢(ひら)く 冬至光
顯神明之憑談(かみがか)る  とりすたん和音と  銀くるす
春日顕(あ)る 十二螺旋の 柱より
半眼に 薄きひかりの 冬至哉














2017年12月2日土曜日

色彩論

弘道館梅林

写真で表現しているのは、
エーテル界かもしれない。
太古の神々による
まだ物質化していないはずの、
自然の、
受肉前の光の、
残像かもしれない。
水戸市の4階の事務所から見る、
西の夕景は、
ロマン派の風景画に似ている。

ルドルフ・シュタイナーの、
1929年のドルナッハでの講義「色彩論」を読む。
印象的な言葉を拾う。

 緑色を生むのは月の力。
 緑色からほかの色へ移るために日の力。

 植物の個々の色調をやや暗く描く。
 その上を白っぽい黄色の輝きで覆うこと。
 このとき風景画が表現できる。
 この感覚は、
 宇宙から地上へ輝きとなって注ぐもの、
 光り輝く宇宙を表現するために不可欠なものだ。
 宇宙を、
 風景の上に流れる輝き、
 として描かねばならない。
 これ以外に、植物の営みの秘密を、
 つまり、植物に覆われた自然の秘密を、
 絵画的に表現することはできない。
 輝きの性格を、そのうえに注ぐ。

 黄色は放射しようとする。
 黄色は霊のかがやきである。

 青で一面描くなら、
 超地上的世界を、地上界に引き入れる。
 青が一様にあるなら、神がそこに働いている。
 青は魂の輝きである。
 赤は生命の輝きである。

 黄色の中に霊的なものがある。
 黄色の中に霊的なものを見上げていた。
 その霊を地上にも持ちたいと臨んだ。
 チマブエのように、
 画面に黄金色の地をつくったとき、
 地上に霊のための居場所をつくった。
 そして天上的なものを現出させた。

 太古の神々の行為を
 緑の、植物界の、自然の中に見る。
 この世の色は、
 物質にむずびついていない
 神々の思いである。
 色彩は太古の創造のときに
 因縁として存在するようになった。

 色彩遠近法によって、
 絵画は霊的なものとの関係を得る。

 神々が事物を通して語るので、
 色彩がある。
 芸術の創造と享受がこれによって力を得る。

あとがきに、シュタイナーによるマントラが紹介されている。

 エーテルの海の輝く色
 その輝きのなかで光の精霊が
 人間の魂に霊性を生じさせた。
 今、暗い物質界の色の中で
 魂は光を求め
 神霊の世界へ到ろうと勤める。
 神霊が人間の魂を力つけるとき
 人間の魂は、
 宇宙エーテルの中に
 光の源を探し求める。

これらを反芻しながら、
風景に、植物に向かう。


 







2017年12月1日金曜日

蜀 星

事務所は楓の樹冠に在るやうな
信じることができるなら、
ぜひ星の力をひいてこい-----。
この言葉を受け、
金指正三「わが国における星の信仰について」(1942)を読む。
いまだ唯物論に毒されていない戦前の書。
神仏への崇敬が濃密だ。

奈良天智天皇のころ、
唐の天文博士が渡来して、
中臣鎌子に、「蜀星の秘法」を授けた。
中臣鎌子は、百済からの仏教受け入れに反対した一人だったが、しかし。

中臣鎌子は、毎月二度この秘法の祭礼を行い、
ついに位人臣を極め、封萬千戸に及んだ。
道鏡、吉備真備、藤原濱足が続いて修した。
修すれば、星はなんと、確かな力だったと推察する。

宮中の星祀りは、
「御燈」
「四方拝」
「蜀星祭」
「本命祭」
「北斗法」
「尊星王法」
古代バビロニアへとつながってゆく。

飯島虚心「葛飾北斎」によると、
葛飾北斎が浮世絵師として一家をなしたのは、
妙見信仰によるものらしい。
妙見とは北極星。
その妙見堂は、本所柳島法性寺にあったそうだ。

信じるとはいったいどんな行為をいうのか。
先の「蜀星の秘法」では、月二度、祭礼をした。
正倉院文書には、北辰菩薩への密教修法の一部として、
「七仏所説神咒経」を書写した記述があるそうだ。
本命祭では、延命経を供養して、
本星の符を帯すると、運が開ける。

明星をおがむと金持ちになる。
なんて俗諺も、信じる力があれば。
星は確かな力なのだ。
妙見菩薩を祀る
つくば市栗原の真言宗北斗寺の「星祭」は2月6日だ。










2017年11月27日月曜日

偶 々


無意識は 月の作用、か 冴へ返る
觸れるもの 常寂光の ておりあの
美しき ナチ軍服が來る 鉛空
穐光る 中の微かな 東方よ
うらぬすの 東より來ぬ 常寂光









2017年11月26日日曜日

観thea


四諦について作文したあと、
古代オリエントに発する「光の形而上学」から、
ライトボディ覚醒の現代にいたる大きな流れの、
探索の途上で、
ネオプラトニズムのプロティノスに出会っている。
プロティノスの見神体験を読んでいるのだが、
師プラトンが顕教なら、
プロティノスは密教である。
ひとの生の目的を知った以上は、
それに違う行為への関心は薄れ、
より上位の世界を知ることを希求するものだ。

叡知界を超えものて、
一者との出会いで起こった光の記述が圧倒する。
プロティノスは究極の観照を観theaと呼んだ。
しかし、観照経験の言語への定着を図るために、
触。
結合。
臨在。
共在。
脱自。
直触への衝迫。
静止。
といくつもの表現をしている。
観ることは成ることだ。

プロティノスは至高に触れる浄福を語る。
神を観ようとするものは、
まず神のごとくにならねばならない。
みずから美しくならねば、
美しいものはわからない。
そうすれば叡知界へと上昇し、
美しいイデアの諸相を観る。
さらにその彼方にある善を観る。
第一のノエートンを観る。











2017年11月15日水曜日

偶 々



木星の 七天使飛ぶ 穐楓
楓燃ゆ 錬金炉燃ゆ 森深く
穐淨む とりすたん和音 かそけくも
叡知(ぬうす)とは 穐中つ世の べあとりいちえ
槐黄葉 煉獄礦山(やま)に 似たるらし
冥府へと 降りたる冬の 菫哉
かたり派の 銀の器の 冬の水
月紀より 木星紀へと 冬汎












2017年11月8日水曜日

Ἑρμῆς Hermēs



ヌース(叡知)、
グノーシス(認識)という言葉が、
鳴り響いている。

 クラテールにみずからを浸せ。
 それをなし得るものよ。
 クラテールを降ろした方へと上ることができると信じるものよ。
 何のために生まれてきたかを認識する者よ。

 この宣布を聞いて、
 叡知(ヌース)に浸されたものたちは、
 知識(グノーシス)に与り、
 全き人間となった。           (ヘルメス選集Ⅳ)

ヘルメスとつながることができたので、
「ヘルメス文書」(1980)を読みはじめた。
本文と訳注とが見開きで開示されているので、読みやすい。
「ヘルメス叢書」全7巻もあり、
こちらは茨城大学で借りた。
如来の分身だった空海の著作を読むときもそうだが、
一字に千の理が含まれる、と思いながら、読む。











2017年11月6日月曜日

参禅


雲水への手続きが進むなかで、
自力で悟ろうとする道元禅師の霊統・曹洞宗の寺院で、
参禅した。
25年ぶりで、
周囲はご高齢の方、無口な方ばかりだった。

40分を二度。
厳しさの中で、いずれも途中で寝た。
覚めると、
小鳥の囀りが急に耳に入ってくる。
だれへともなく、詫びる。

雑巾掛けは足が冷たかった。
他人の目的は知らぬ。
わたしの目的は唯一、帰天だ。
叙情的ではない。

その夜はよく、眠れた。
翌日の、
身の、頭の、
軽やかさは、ぜひ書き残しておきたい。







2017年10月31日火曜日

偶 々

Salvia 

上昇運動は
質料性の束縛を脱して
一段一段と
自己の精神的家郷に
還行する。

偶 々

穐光の 形而上學 圓かなる
質料の 穐光に輕む 途のうへ
ておりあは 搖るるさるびあ 叢の翳
彼岸とは 櫻紅葉の 樹冠哉
ドウイノの 異教の天使 穐薄暮
銀杏の 森黄金なる 錬金炉











2017年10月29日日曜日

指針

歴史館
わたくしはもう酒を飲んでいない。
人を憎んだり、
怒鳴ったり
人を批判したり、
していない。
ましてや、
自己憐憫に浸ってもいない。
リュミエールを探す
穏やかな日々を過ごしている。

あの黄金の仏像の前で座り、自然に肩が降りた時間と、
水澤有一の音楽と言葉が、
わたくしの、詩歌俳と文と、写真の仕事の、
これから、の指針になっているところだ。
いつか天を降ろせる日が来ることを願っているだけだ。
つたなくても、だ。


 売れればいいと思ったり、
 インスピレーションを受けたくて、
 酒やドラッグにおぼれ、
 朦朧となって曲を書く人もいるが、
 それではいい構想は降りてきません。
 心が地獄的では美しい楽想は得られない。

 曲のメロディーの形を突き詰めてどんどん純化していくと、
 結局、心の波動しかなくなっていく。
 だから、自分が本気で信じていること、思っていることしか
 実際、音にすることができない。 

 それはたとえばちょうどボクが気になって精一杯手を広げていると、
 さんさんと輝く太陽(仏)の光がサーッとさしてくる。
 その光によって身体の葉っぱがさらさらとオーケストラのようにそよぐ。
 その音がまさに音楽のイメージなんです。

 仏の神秘感を感じるために、もちろん感性を磨く。
 知性や理性の部分、すなわち音楽理論も磨く必要がある。
 音楽の世界で言う知性とは、和声、メロディー、旋律の力学の理解。
 その真剣な努力が踏み台となって、はじめて仏の世界に飛躍できる。

 カッコ悪くてもいいから、真実の価値に対してHi-Fiでありたい。

 理想を持つ大切さはブルックナーの人生からよくわかる。













2017年10月25日水曜日

空海の言語

短いけれども、井筒俊彦の「意味文節理論と空海」(全集8)を読み、
多年の不愉快さが消失した。
多年の不愉快さとは、言葉の深みをめぐる、さまざまな論のことで、
詩歌俳の言語が、どの深みに触れ、どの深みから発生しているかという問題を、
明瞭に答える人がいなかったことだ。

 内外の風気 
 わずかに発すれば、
 必ず響くを名づけて、
 聲というなり。       
 十界に言語(ごんご)を具す。 (声字実相義)
 これらは大日如来の言葉である。あらゆる世界は言葉を発している。

 真言密教は、言葉の「深密」に思いを潜めている。
 言葉の深層構造と機能を第一としている。
 「存在は言葉である」という命題があるのだ。

 真言密教が、第一義的に問題とする言葉は、
 普通に理解している言葉ではなくて、
 一段高いレベルにあるもの、つまりは異次元の言語である。

 「果分可説」の理念は、
 空海が、「弁顕密二教論」の中で、すべての顕教から区別する、
 決定的目印として挙げている重要な概念である。

 果分は、通常は、仏の悟りの内実のことである。
 あるいは、意識と存在の、究極的絶対性の領域、
 絶対超越の次元である。

 「言語道断」「言亡慮絶」という。言葉を超えた世界、次元ということだ。
 言葉では叙述できそうもない形而上の世界のことだ。

 空海の標識としたこの「果分可説」は、
 異次元には、異次元なりの、
 異次元の言葉の世界の働きがあるのだということだ。
 言葉のかなたにあるものを、
 しかしやすやすと放棄しないのが空海であるのだ。

 異次元の言葉はどんな根拠に成り立つのか。
 どのような言語の現象なのか。
 異次元の言葉として存在展開するのか。

 果分に、反対するのは「因分」である。
 因分は、通常の経験的世界、現実世界の言葉だ。

 「法身説法」は、大日如来の言葉。
 人間の語る言葉と根本的に異なる。
 しかしふたつの言葉の間には、連関はある。

 空海は、日常のかなたに、異次元の言葉の働きを見る------。
 形而上次元に働く特殊な言語エネルギーを認める。
 経験的次元にはたらく言葉の中に自己顕現する異次元の言葉、
 絶対的根源語だ。

 「山」は、概念輪郭に、惰性的に固定されているのだが、
 深層領域では、山という固定したものではない。
 誘導的、姿を変えているダイナミックなもの。
 意味エネルギーが、焦点を決めようとしている意味生成の過渡的動状態があるのみだ。
 漠然たるものから凝集しよとする意味エネルギー体である。

 唯識論でいう「種子」(しゅうじ)は、
 意味の種だ。
 形成途上の流動的体と、
 無数の意味が、
 深層意識の底に蓄えられているのである。

 だからこそ、
 深層的な意味世界存在喚起能力を持ち、
 存在創造的機能ともよぶべき、根源的な力を発揮する。
 
 その言葉の存在喚起エネルギーが、
 通常の経験次元を超えて、
 言語の表層と深層と、
 さらに超えた異次元のレベルまで遡及する。
 そこまでたどることができるのか。

空海を理解するには、空海の言語が、すでに日常語ではないことを前提にしなければならない。
日常のかなたの言語だ。
大日如来の言語を垣間見ては、
やがてそこにいたろうという意思を生む。













2017年10月24日火曜日

光の形而上学へ



占星術師の鏡リュウジが、井筒俊彦の「神秘主義」の定義を書いていた。
次のようなものだ。

 現実は垂直的多層性を持ち、
 通常認識されている以上の次元が存在する。
 それに相当する意識の多様性が存在し、
 意識の水準が変化すれば、
 現実の表れも変化する。
 
 意識が深まるほどに、
 表層的現実の背後にある存在-----「本質」の実相が、
 さまざまなイマージュとして浮かび上がる。
 その顕現、
 その表現、
 が
 さまざまな神秘主義の流派となっているのである。

かなりわかりやすい。
意識を研ぎ澄ます必要は、
高度に意識を研ぎ澄ます必要は、
その過程で現れるイメージに、
触れる、
抽出する、
渉猟する、ためのものだ。
そこに詩歌俳の世界もあるのだろうけれど。

井筒俊彦の生前最後のメモに「光の形而上学」とあった。
その流れをこれから追っていこうと思う。

アレテイア(真理)とは「隠れなきこと」という意味だ。
真理と光は同一視されるものだが、
パルメニデスとプラトン、
受け継いだ新プラトン主義者プロティノス。
〈光の形而上学〉を指していたのだろうか。

あるいは、ネオプラトンの、
シャハブッディーン・スフラワルディーの、
「照明派」学派を指していたのだろうか。

意識の多層性の中を上昇する努力を続けよう。
精妙な衣を纏え。
何も知らずに死ぬのは罪だ。










2017年10月17日火曜日

オルフェイスの碑文より


魂とは値打ちのあるものだ。
夜明けにきいんと一直線にやってきた響きは、
遠い場所、古代希臘からだった。
それは数日前、宇都宮の寺院の壁に張られた案内に見かけたものでもあった。

紀元前5世紀の、
オルフェイス教団の金の板の碑文が、近年次々と、
トリオイ、ヒッポニウム、テッサリア、クレタで発見された。
碑文に記された死者への言葉は、
迷路に陥らないための言葉。

 冥界に降りたとき、
 レテの水(忘却)ではなく、
 ムネーモシュネーの泉の水 (記憶)を飲むように。
 番人に次のように告げなくてはならない。
 「私は大地と星空の息子。
 喉が渇いたので、
 ムネーモシュネーの泉から、
 何か飲むものを、私にください」

古代宗教の字義はすべて、
現実だったという前提で読み込むことが肝要ではないか。
「譬え」と軽んじてはならぬ。
どの宗教にも指導する存在はある、のも前提ではないか。
碑文から何か、大切なものを読み取らねばならない。
次の碑文にもだ。

 われは星影清き蒼穹と大地の子なれども
 わが属するは、天の種族なり。
 おんみら自ら知り給うごとく。

魂は天に由来する。と書いてある。
オルフェイス教の教えは、
霊魂は神性と不死性を持つ。
悲しみの輪、という輪廻転生を繰り返す。
しかし、転生を解脱する秘儀がある。
生前の罪と死後の罰。
など。

井筒俊彦の「神秘哲学」の一文「輪廻転生から純粋持続」によると、
その秘儀は、「オルフェイス的生活法」と呼ばれた。
禁欲と清浄な戒律。
やがて引き継いだピュタゴラス教団では、
数学研究もまた、魂の浄化の方法として。

パルメニデスの詩歌発想の方法についてはまた別の機会に。






2017年10月15日日曜日

繁栄の法則


繁栄の法則がある。
他の人の喜びとなる生き方をするなら、喜ばれる。
他の人を害する生き方ならば、嫌われる。
単純だが真理だ。

「繁栄の法則」が存在している。
それは、
①自分の霊的人生観と一致する職であること。
②社会の役に立つこと。
③社会の評価が伴うこと。
「繁栄し続ける」「成功し続ける」は、
この3つが持続すること。

この法則を霊的に見ると、
①日々魂は、八正道のような精進をしているかどうか。心の進化が伴うか。
②周囲へより多くの感化、影響力があるかどうか。
③後世への遺産を残したい思いがあるかどうか。
そして
④守護霊指導霊の援助があるかどうか。

さらに
「発展する」という意味は、
一人の人間でありながら、やがては
1万人分の、一億人分の仕事ができること。
人は、それだけの大きな人生を生きることができる。
それは菩薩、如来への道。
多くの人々を指導する器である。

後世の人々に残すものがあり、
後世の人々を感化できる仕事かどうか。
これは菩薩や如来の最終的自己実現である。

翻って、
能力がありながら、成功できない人は、
守護霊指導霊への感謝の念が少なすぎる。
指導する存在があるのだから。
感謝の心は自分の中の光と呼応してくれる。

価値のある場所に、
価値のある人に、
人は集まる。
人が集まらないのは無価値だから。
儲からないのは、ひどい問題がある。
その存在に、需要がない。
社会評価が生ないのなら、
仕事の質に、問題がある。

自分を5年も10年も磨いている人には、
やがて光が当たりはじめる。








2017年10月12日木曜日

偶 々


  偶 々
諸戯絶てば ただ一本の 茜くさ
瞑(めつむ)れば 内なる眼の開く 花野なか
風葉(ふうえう)と 菓(このみ)に輪廻 知りたるか
菓(このみ)にも あまねく因縁(いんゑん) ありしとか
一文字に 千の理があり 穐獨空
顕れぬ 行果は穐の 實のひとつ
境と智を 泯ずるはよし 穐の空
ただ澄めり 弟橘媛の 穐のその










秘鍵


一ヶ月にわたって読んできた、
空海最晩年の著作「般若心経秘鍵」。
総括したい。

すべては比喩ではなく実在する前提で、
仏教を捉えることにしている。
そうして始めて理解できる。
信じることができる。

 一字に千理を含む。

と書くとき、
ひとつの文字の中に、1千の真理が含まれている、
とわたくしは受け入れる。
字の意味と、その意味に真理のはるかな深みがあると。
漢字ひとつひとつを侮ってはいけない。
宇宙にあまねくある理が隠れている。
 
 一字一文法界に遍じ、
 
の法界とは、全宇宙、真如のことだ。
差別のある現象界の事法界、
宇宙のありようすべて真如であるとする理法界、
現象界と実在とは一体不二であるとする理事無礙法界、
現象界が一と多との無尽な縁起の関係にあるとする事事無礙法界、
にあまねく存在する法則を含んというのだ。
それらは過去生、現在生、未来生を貫く。
だから、次の、心経のはたらきを受けよ、と空海は言う。

 真言は不思議なり。
 真実にして虚ならず。
 観誦すれば、無明を除く。 
 能く一切の苦を除く。
 即身に法如を証す。
 行行として円寂に至り、
 去去として原初に入る。

誦ぜよ。
書写せよ。
一文字一句をよく哲学せよ。
やがては密教眼(みっきょうげん)が育ち、
深旨が理解できるはずだ。
仏陀の聲と文字が其処にはある。
心経の一文字一文によって、
無知から解放され、即身の儘、
宇宙の法則にいたることができるのだから。
一文字の中の真如を掴め、と。

それにしても、
空海の言語の切れ味、
現代に失われた語彙力に、感嘆する。
朗誦に値する。











2017年10月11日水曜日

井筒俊彦

ユリノキ黄葉
「朦朧体」写真について、
哲学者井筒俊彦の、
論考「コスモスとアンチコスモス ・事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」に、
視点の根拠を見出すことができたと書いたら、
それは実際おこがましいのだが、
ひとつの存在する理由として挙げるのもよい。

もともとは空海の「般若心経秘鍵」の中に、
華厳経の「事事無礙法界」の意味を調べているうちに、
いもづるって、
わき道にそれたからなのだが。

仏教哲学の、「事事無礙法界」は、
現象界の一切の事象が互いに作用し合い、
融即していることをいうそうだ。
法界とは真理の境地をいうそうだ。

いもづるってさらに、
融即とは、融即律かもしれぬ。
別個のものを区別せず同一化して結合してしまう心性の原理。
仏蘭西のレヴィ=ブリュル(Lucien Levy-Bruhl)の言葉だ。

井筒俊彦の「華厳経」について語る部分に、
共鳴した。
東洋哲学と東洋美術、
特に山水画の気韻と呼ぶものは、
わたくしの「朦朧写真」と、関連しているように思う。
老荘ーーー山水ーーー山水思想ーーー仏教と、
東洋を円環する何かの気配を。

 事物を事物として成立させる、
 相互間の境界線あるいは限界線--存在の「畛」(へだて、境界)的枠組み--を
 取りはずして事物を見るということを、
 古来、東洋の哲人たちは知っていた。
 東洋的思惟形態の一つの重要な特徴だ。

 「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
 ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、
 あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
 ということは、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
 限りなく細分されていた存在の差別相が、
 一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
 この境位が真に覚知された時、
 禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ。

井筒俊彦は、イスラム教の「アッラー」とは
仏教でいう「真如」と同じだと考えていたそうだ。











2017年10月6日金曜日

無私


ドイツ語のルドルフ・シュタイナー全集が、無償で読める。
オンラインで開放している。

ルドルフ・シュタイナーが、1902年12月23日に、
ベルリンで行った講演のさりげないくだりが
シュタイナーのもっとも宗教的な、
宗教の普遍的な内容であることに、驚いている。

「秘密結社の基礎をなす外展と内展」という講演で、
「神殿伝説と黄金伝説-----人間進化の過去と未来の秘密の象徴的表現」
という書に含まれているものだ。
輪廻転生する人間存在へ、
明確な肯定のうえに語りかけている。

 すべての仕事が、
 自分の生活費のためにあるかぎり、
 仕事が生計を立てるための手段であるかぎり、
 霊的所有は、その分だけ、いやおうなしに、失われる。
 それに対して、
 客観的なもの、ほかの存在と結び付けられたものは、
 すべて、未来のわたしたちの意識を発展させる。

 無私の働き------。
 すべての神秘学は、
 自分を除外して、
 無私の態度で、行動しなければならない。
 なぜなら、
 無私の行為こそ、「不死性」の基礎だから。
 さらに、自分の関与を秘密にすることも。

  あなたが世界にささげただけのものだけを、
  世界は、あなたの意識のために、報いる。

 という法則がある。

無私に達したひとびとは、
「第六根幹人類期」に移行していくそうだ。









2017年10月3日火曜日

偶 々

偶 々
百合といふ 受肉に惑ふ 六芒形
穐の日の 石の黙(つぐ)める 冷たさよ
百合は落つ 内なる水の 腐すれば
腐したる 百合の花弁の 落下かな
百合の落つ 音の重たき 夕暮かな
水星の 戯れに揺る 楡黄葉
天地(あめつち)を 結ふ八芒形の 穐櫻










2017年10月2日月曜日

ノヴァーリス

sage
天界の住民の思想や芸術だけを研究せよ。
天界を地上へ降ろすつもりなら。
そんな聲が最近聞こえてくるようだ。
わたくしのこの歳での、
宗教への目覚めであるけれど、
秋が顕ちて、一段と強くなっている衝動だ。

人智学の祖、ルドルフ・シュタイナーの霊学に再び出会っている。
そうだ。
20歳台の多くの時間を費やしながら、
新聞社で限りない抵抗に遭い、
外的には露ほども、果を生まなかった霊学だ。
そう感じるのは、
「霊学」と規定さざるを得なかった訳者高橋巌の所為だ。
20年を経て再び、高橋巌訳を読むが、
かつては巨人だった高橋巌はしかし、
唯物論者あるいは唯物論の檻を抜けることができなかった美学者。
霊学とはいえ、
彼岸の生を真実とする宗教であるはずを、
むしろ宗教であったなら、
どれほど人を救い、
安心させることができたか。
高橋巌は霊学の本来の目的を知りつつも、
特異な語学力を武器に、
霊学の最終的な目的地を、
隠した。
それは罪、だ。
神秘主義者というレッテルを恐れたな、と。

「シュタイナーコレクション7---芸術の贈りもの」(2004)を読んでいる。
このなかから、わたくしは、
わたくしの人智学的自然写真の根拠を見つけねばならぬ。
わたくしは「シュタイナー衝動」によって視界、視力が明瞭に変化している。
エーテル、アストラルを見る視力が、開発されてしまっている。
それは霊学の書物とそれをめぐる人々との間の活動に、浸ったからだった。
なぜかくも変化しているか、
人智学の書物の中に、いまさらでも探索を開始する。
それでわたくしもわたくしの外の人々を
納得させるためでもある。

まずは、
1921年にドルナッハでの講演録「芸術心理学」で、
ロマン派詩人、
Georg Philipp Friedrich von Hardenbergつまりはノヴァーリスを、美しく語っている。
シュタイナーより100年前の詩人のことだ。
シュタイナーは霊視する。

 ノヴァーリスに「詩的であるとはどういうことか」と問いかけました。
 沈潜すると、ノヴァーリスは、霊界からやってきて、
 日常の散文的な生活を、詩的な輝きで包み込もうとしているようなのでした。
 霊的魂的なものが、空間と時間を包み込んでしまうのでした。

 ある深い根源的な要素が響いてきます。
 この世で、詩の音楽性を、あの故郷から、取り出したのでした。
 音楽的なるものの故郷から離れて、
 音楽的なものを、詩的なものの中に取り込んだのです。
 魔術的観念論によって、
 時間と空間を融合し、
 散文的な現実に巻き込まれずに、
 ふたたび音楽の霊の中に入っていったのです。
 彼は、音楽と詩を深く身につけて、
 29歳でふたたび、音楽の故郷へと帰っていきました。

 音楽家が地上に音を響かせる前に
 音楽の本質そのものが、
 音楽家の本質をとらえ、
 音楽の働きを人間のうちに組み入れたのです。

 ですから
 音楽家は、宇宙のハーモニーが
 音楽家の魂の奥底に、
 意識されることなく、植えつけられていたものを
 音楽として、発表するのです。










2017年10月1日日曜日

那由多


東大寺法華堂。
日本で最初に「華厳経」が読まれた場所だ。
華厳経は彼岸の光を映した経典。
だから、「光への向き合う方法」として読むことだ。
その方法を「海印三昧」と呼ぶそうだ。
海は連綿とした縁だ。

すべての存在は、阿頼耶識から生まれる。
すべての生命には、本覚真心が備わる。
自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)。
仏性。
如来蔵。
これらの意味は、
すべての人間には、
普遍的な真理を
理解できる能力が備わっている。
ということなのだ。

翻って、華厳経「如来光明覚品」。
如来の智慧とは光だ。
あまねく一切を照らす光だ。
如来は、眉間の白毫から、
無量億、那由多、阿僧祇の、光を放つ。
光は、
あまねく十万一切の世界を照らす。
右に回ること十度して、
如来の量なき自在を顕現する。
幾万の菩薩を覚醒させて、
一切の魔属を覆い、
究境を荘厳し、
徹底的に、浄化する。
光に包まれた人間は、即座に悟る。
瞬く間に悟りが開かれる。
彼岸では、心身の病は消散する。













2017年9月30日土曜日

渋沢孝輔

桂並木が燃えてゐる
詩人渋沢孝輔の詩論を2冊続けて読む。
「螺旋の言語」(2006)と「蒲原有明論」(1981)。
上田敏から北原白秋へつながる明治の詩歌のラインの真ん中にゐる、
蒲原有明について書かれている。

かような、生まれつき詩の傍にいた人の詩論は、ことごとく面白い。
彼岸から、詩集ばかりの書斎を、此岸にそのまま移してきたような趣からの、
ある霊感のようなものをいただく瞬間が喜ばしい。
そして休日の朝に、書くことのできる喜びもだ。

古体へのやみがたい憧憬の所有者、として蒲原有明を見る。
というよりも、生まれつきの詩人が、自己投影をしているようだ。
生きるということは、詩を探すことらしい。
詩は日本語の深い場所にあるのだが、
なかなか届かないらしい。
それでも詩に触れていると、
時々深みが顔を出すことがあるらしいのだ。

有明に対しては、
詩と言語の根源にまでさかのぼって、
方法上の模索を余儀なくされている、ことへ、
純粋詩の志向を持つ象徴詩であることへ、
これを藤原定家と同列に置き、
美学の根を、この国の伝統的感性の中に探った点で、
共感している。

古体へのやみがたい憧憬、という言葉をふたたび。
象徴概念云々よりも、
この古きものへのやみがたい衝動こそ、
もっと解かれてよいかもしれない。
その衝動を集める作業だ。

有明が、芭蕉を「象徴詩人」と呼んだことは、
当時としては斬新だったそうだが、
芭蕉を評した、

 凡を練りて霊を得たり

とは、実によい言葉だ。










2017年9月24日日曜日

禅那と正思惟

 Lilium 'Casa Blanca'
スーパーで580で買ったカサブランカは、
1週間かけて開花し、まだ6房もつぼみのままだ。
うまくゆけば一ヶ月は咲いてゐてくれそうだ。

「国訳大蔵経」の「般若心経秘健」の読み下し文の
空海の文章が、きりりと美しい。
これを自分のものとしなければならないという気持ちになる。
リズミカルに畳み掛けてくる。
ふだんの朗読、朗誦にふさわしいものを感じる。
噛み砕く説明もない、これだけの短文の連なりで、
よく合点がいったものだ。
その知力に恐れ入る。
空海は、これほどの語彙をいつの間に吸収したのだろうとも。
「般若心経秘鍵」原文2行目を考えてみた。

 無辺の生死を如何んが能く断つ。
 禅那と正思惟のみあってす。

輪廻転生を繰り返すことを断つために、できることは何か。
それは禅定と正思惟だ。

まず禅那。
定(じょう)、静慮(じょうりょ)などと訳す。
定は「三昧」。
定は、ただ消極的、受動的な状態、恍惚境とは違い、
三昧によって、事物の正しさが理解できる働きのこと。
「覚」の立場から世界を再認識できるようになること。
さらに、その働きは「慧」と呼ばれる。

次に、正思惟(しょうしゆい)。
自己中心的な考えを捨て、
強欲、怒り、虚妄の貪瞋痴(とんしんぐ)の三毒に惑わされず、
正しく考えること。
成功を収めて幸福に生きていきたいと思うならば、
思考を正さなくてはいけない。
思考を正せば、行動は自ずと正しくなる。
















2017年9月22日金曜日

心経秘健

如来。
菩薩。
明らかに実在している。
彼岸に。
此岸に。
その気配を感じる。

空海の、加藤精一訳「般若心経秘健」を読む。
焼肉を男女で食うのを我慢して、
「望月仏教語大辞典」を購入したあとに。
同書は空海が晩年、密教から解釈した般若心経の功徳を書いた。
真言宗では「読誦経典」である。

もとより、仏教を実践するというのは、
此岸で正しい智慧を身に着けて、
彼岸で迷わないためである。
地獄へゆかないためである。
空海が語る。

 これを誦するだけで、無知から解放される。
 ひとつの文字に、千もの真理が含まれていて、
 この世にいながら、大日如来の住む世界とともに在ることができる。
 確実に、悟りの境地に居る。

 心経の密教的深旨を理解するには、
 密教眼をもたねばならぬ。

 心経の一字一句は、法界に遍満している。
 内容は過去現在未来を貫く。
 心経によって無知を断て。
 邪魔する魔軍を撃破せよ。

 どうやって彼岸に渡るべきか。
 心を鎮めること。
 正しい智慧を養うこと。
 心経を保持、講じ、写し、供養せよ。

これから、般若心経を講じる空海に添うことにする。













2017年9月17日日曜日

三 蔵


上田敏の訳詩集の名「海潮音」が、
佛の聲、という意味だと知ったとき、
明治期の、ある文学者の深層より、
脈々たる日本仏教の霊性が奔出したのだ、と思わずにはいられなかった。
だから、
上田敏から北原白秋へ続く美しい日本語、はわたくしのテーマだ。

結論から言うと、
わたくしの人生はとても間違っていた。
真理を知らずにいた。
此岸と彼岸は連絡していて、死後は間違いなく彼岸にゆくのだが、
此岸で彼岸を信じ、できるだけ人を幸せにすることだ。
言葉と態度を正しく、やさしくするだけでもよい。

ただ、真理は掘り出すべきものでもあるだろう。
「昭和新纂国訳大蔵経」第2巻「解説部-仏典解説」(1930)を読んでいる。
釈迦入滅後に生まれた仏典が300以上もあり、
おびただしい訳僧、三蔵法師らによって、音写による漢訳が、ある時代まで行われた。
これら経典の多くがこの日本においては、忘れられようとしている。
このひとつひとつの経典に、
此岸と彼岸を貫く、厳かな真理が綴られていること、を改めて知る。

唐の義浄が訳した「金光明経」は国家守護、
天部崇敬の経典。
聖徳太子の四天王寺は、この鎮護国家の教えをもとに造られた。

唐の智通が訳した「千眼千臂経」は、
千手観音の大用を説き、
25の印契と咒を明かしている。

「観弥勒菩薩上生兜率天経」は、
弥勒菩薩の住んでいる兜率天の相を明らかにしている。
未来世を思い、戒を持てと勧める。
「兜率往生」は「極楽往生」とともにかつては盛んだったらしい。

本邦仏典の項も初めて知ることが多く、興味深い。
いずれのかたがたも、巨人として、立ちはだかる存在に見える。

華厳宗から真言宗に帰した明恵の「光明真言土砂勸記」は、
「光明真言」の23字の字義、功徳を説く。
現代と異なり、多数の著作の中でもこの一書を取り上げているのはなぜか。

円仁の「金剛頂大教王経疎玄談」は、
密教史上不朽の功績だそうだ。

空海の「般若心経秘健」は、
密教から心経を説く。

元寇を予言したのは僧日蓮。
太平洋戦争で国土の焼け野原を幻視したのは、古神道家の出口王仁三郎。
いずれも迫害を受けた。「空襲警報」の鳴る中で、思い出した。
仏教について、何も知らずに、ここまで来てしまった。
あと15年全力を尽くそう。
詩歌俳でしたように、
ひとつひとつの仏典の概念を確認し、多方面から眺め、
加えて、写経するのだ。
彼岸を知り、過去、現在、未来を知る道があるはずだ。
きのう、
真言宗六地蔵寺の住職が、
空海は加藤精一訳がよいと勧めてくれた。
深いところから言葉が出る住職だった。
中村元の仏教語辞典は旧来の仏教観で弊が多いという。
唯物史観が支配しているそうだ。












2017年9月11日月曜日

未確認飛行物体

9月11日18時9分
水戸市緑町の集合住宅4階より、南方向、千波湖畔上空に、
銀色の発光物体3点。
数秒で消失。







良経

偕楽園梅林

定型詩人はもともと、
傷つき、失われていく日本語と、
やわらかい大和言葉と、きびしい漢語を、
労わり、守り、蘇らせる使命を持っている。
そのために、
目の前にみえる現実と自分の経験のみを
忠実に記録するのだという間違った考え方をする必要もない。

「狂言綺語」という古い仏教の言葉がある。
誤ったたわ言、むやみに飾り立てた言葉のことで、
和歌や物語などを卑しめていうのに用いるらしいのだが。
平安以後は、
仏教への機縁たりうるものとして価値転換した。

塚本邦雄の藤原良経の秋篠月清集を論じた「冥府の春」に、
ふいに、良経の和歌の特質、
特に妖気性、退廃性を説明する言葉として登場した。

 狂言綺語の毒は、
 霊薬にひとしい効力を発揮した。
 起死回生の、麻薬のような綺語を、
 定家に先んじて、わがものとしていた。 
 定家は、良経に示唆され、触発され、躍らされ、
 体得し、職業の秘密とした。

と塚本の書く内容は、
見ぬ世つまりは冥府と、
現世をつなぐどこかの場所で、和歌をつぶやいている
良経の姿と良経の歌がいかに異風だったか、ということだろうか。
良経は、藤原俊成に和歌を学び、
俊成の歌論書「古来風体抄」で示される、
「狂言綺語観」による幻想的な詩趣を、
引き継いだとも言えそうなのだ。
新古今和歌集が「象徴主義」といわれる理由のひとつが、
ここにあるのかもしれない。









2017年9月9日土曜日

偶 々

偕楽園梅林の朝

銀皿の 酸漿の朱の 佛性論
夏の夜に 儒波窶玉(すばるのたま)を 降ろしたる
梨齧る 紺碧の乞食 僧侶とて
紗(うすぎぬ)の 翼浮かびぬ 穐空に
土器(かわらけ)は とほい琴座に 顫へをる
神曲の 百合の六辨 斷面圖
歪形眞珠(ばろつく)の 程の明るき 穐の晝
仮初の だいやもんどの 炭をつぐ
韓藍(からあゐ)も 呉藍(くれなゐ)も待つ 夏翳り
ひきちぎる 朱柘榴の實を 殺生戒
夏衣 うすき絹繻子(さてん)を 隱したり
本繻子の 向かふ過(よ)ぎたり 夏の翳 
穐咲きの 白山吹の 冷たさよ











2017年9月3日日曜日

「ドゥイノの悲歌」


此の朝、独逸文学者で作家の古井由吉の「詩への小路」(2005)を読む。
此の作家の文体は、読みながら同時に、思索を誘う速度だ。
独逸詩人をめぐるエッセイだが、中でも、
Rainer Maria Rilkeの難詩「ドゥイノの悲歌」の翻訳を、
緊張感をもって読むことのできた貴重な朝になった。

天使への呼びかけで始まるこの作品は、
まさに天使、見えない世界をを希求する詩人の独語ではあるが、
その天使は、実在しているのだ。
そしてリルケ自身の立つ位置もまた、素朴な人間ではない、
とだけ書こう。
正直、わからない。
但し、
眼に見えない世界の秩序を俯瞰し、
媒介する天使存在の実在を直感した、
ことは理解した。
「ドゥイノの悲歌」について書いた手紙を堀辰雄が翻訳している(全集第5卷)。
うすぼんやりした輪郭がつかめる。

 我々の身のまはりにあり、そして役に立つてゐるところの自然とか、事物とかは、假初のものであり、脆弱なものではありますが、それらのものは、我々がこの世にあるかぎり、我々の所有物であり、我々の親友であります。

 それらのものは、嘗て我々の祖先たちのよき話相手であつたやうに、我々の不幸や喜びによく通じてゐます。その故に、この世のすべてのものを汚したり、惡くしたりしてはならない、そして我々と同じな、それらの果敢なき性さがゆゑに、それらの現象なり、事物なりを、もつともつと新しい理解をもつて把握し、それらのものを變化せしめなければならない。

 變化せしめる? さうです、それが我々の義務だからです。すなはち、それらの脆弱な、假初の、地上的なものを、その本質が我々のうちに「見えざるもの」となつて蘇つてくるほど、深く、切なく、熱烈に、我々の心に刻すること。我々は「見えざるもの」の蜜蜂です。我々は「見えるもの」の蜜を夢中になつて漁つて、それを「見えざるもの」の大きな黄金の巣のなかへ蓄へるのです。

 「悲歌」は、我々に愛せられてゐる、目に見え、手で觸れられる諸々の事物を、我々に自然に具つてゐるところの、目に見えざる動搖と昂奮と――それは宇宙の振動圈のなかに新しい振幅を導き入れるものです――に間斷なく置き換へることに全力を注いだ作品です。

 死は、我々の方を向いてをらず、またそれを我々が照らしてをらぬ生の一面であります。かかる二つの區切られてゐない領域のなかに住まつてゐて、その兩方のものから限りなく養はれてゐる我々の實存を、我々はもつともはつきりと認識するやうに努力しなければなりません。

 人生の本當の姿はその二つの領域に相亙つてをり、又、もつとも大きく循環する血はその兩方を流れてゐるのです。そこには、こちら側もなければ、あちら側もない。ただ、その中に「天使たち」――我々を凌駕するものたち――の住まつてゐる、大きな統一があるばかりなのです。そして今や、かうしてそのより大きな半分をつけ加へられ、ここにはじめて完全無缺なものとなつた此の世において、愛の問題が前面に出てまゐるのです。

 この世の目に見え、手で觸れることのできる事物を、より廣い周圍、もつとも廣い周圍のなかへ導き入れるといつても、なにも基督教的な意味ではありません、(それから私はいつも熱心に身を遠ざけてゐます、)そしてそれは純粹に地上的な、深く地上的な、聖らかに地上的な意識をもつてであります。それはその蔭が地上を暗くしてゐる來世の中なのではありません、それは或る全きもの、一個の全體の中なのであります。我々の身のまはりにあり、そして役に立つてゐるところの自然とか、事物とかは、假初のものであり、脆弱なものではありますが、それらのものは、我々がこの世にあるかぎり、我々の所有物であり、我々の親友であります。

 我々には、それらの追憶(それだけでは何でもないもので、誇るに足らないものでせう)のみならず、それらの人間的で、かつ「家神的ラーリツシユ」(家の神といふ意味での)な價値を保存するといふ責任があるのです。この地上のものは、我々の裡で、見えざるものとなる以外には、なんらの逃路をもつてゐません。我々の存在の一部をもつて「見えざるもの」に協力してゐる、(少くとも)見かけだけはそのごとくに見える、そして我々の生きてゐるかぎり、我々の持分である「見えざるもの」を増加せしめなければならないところの、我々の裡で。我々の裡でのみ、目に見えるものから、目に見えないもの――見えたり觸れられたりしてゐたことと――そのやうな我々はもう何んの關係もないもの――への内的な、永續的な變化が行はれるのです。

 「悲歌」の天使は基督教的天國の天使とはなんの關係もありません。(むしろイスラム教の天使の形姿に近いと云へるかも知れません。)……「悲歌」の天使は、見えるものから見えないものへの變化(それこそ我々の仕事です)が既に實現せられてゐるやうに見えるところの被造物なのです。「悲歌」の天使にとつては、過ぎし世の塔とか、宮殿とかは、ずつと昔から既に見えなくなつてゐるが故に、「實存」してゐるのです、そしていま我々の世界に立つてゐる塔とか橋などは、我々にとつてこそ實體のごとく存續してゐるけれども、天使にとつては既に見えざるものとなつてゐるのです。「悲歌」の天使は、見えざるもののなかにより高次の現實を認めることを保證してくれる存在なのであります。――その故にこそ、いまだに見えるものと關係してゐる我々、戀するものであつたり、或ひは變化するものであつたりする我々にとつては、天使は「恐ろしいもの」なのであります。

 宇宙のあらゆるものは「見えざるもの」のなかへ、かれらの最も新しい、最も深い現實のなかへのやうに、飛び込んでゆきます。二三の星は直接に上昇して、天使の窮みない意識のなかへ消え失せます。










未確認飛行物体

9月2日土曜日夕刻。
京成百貨店上空に銀色の玉。
5分後にわずかに上昇したのち消滅。
緑町4階より見る。






2017年8月30日水曜日

邪宗門その4


ヴィリエ・ド・リラダンの翻訳で知られる仏蘭西文学者の、
齋藤磯雄「ピモダン館」(1984)の中での、
仏蘭西象徴主義についての定義が明瞭だった。
それは実に攻撃的、刺戟的だ。

 サンボリズムは奥深い内面生活の暗示を志す。

 詩人の追求するものは、
 感情でも観念でも風景でもなく
 それらのものが、
 内奥にもたらす神秘的な反響である。

 外界の事物は、
 其の奥潜むある実相を暗示する記号だ。
 詩人は、類推によって、
 この暗号を解読する者である。

 この意味で、
 詩歌は単なる芸術以上のもの、
 科学よりさらに真実なるもの、
 認識のもっとも確実な手段となる。

 意識下の、
 冥くも深き統一を形成し
 営まれている内面生活を、
 ふさわしい幽玄な言語によって表現する使命。

 象徴派にあってサンボルは一変し、
 ひとつの秩序から
 他の秩序への完全な置換へとなった。

 サンボリズムのもたらした最大の教えは、
 ポエジーをその本質、精髄において
 把握しようとする不屈の精神であり、
 ボードレールのいう「灯台」となるひとびとにより、
 引き継がれてゆくだろう。

 詩人の使命は、
 もろもろの感覚の相互間の
 関連と類縁を発見し、
 象徴的な意味を示すこと、にある。

 シャルル・ボードレールの十四行詩「照応」は、
 天地創造の統一性、
 創造は物質界と霊界からなること、
 象徴は、物質化と霊界の照応を実現していること、
 共感覚が、さまざまな感覚の照応を実現している。

 かれらは、
 詩句の諧調や律動の効果を重視し、
 アリテラシオンやアソナンスの構成に、
 管弦楽的手法を用いた。
 そして、
 「降神魔術」として、
 言葉を知的内容のためだけではなく、
 音響的喚起の力、音楽的暗示の力のために
 選んだ。

ランボーがなぜ「詩人は見者たらねばならぬ」と言ったのか、
マラルメがなぜ「実存の諸相の神秘的意義の表現である」と言ったのか、
が垣間見える。
翻って「邪宗門」を読むとき、たとえば、

 朦朧体として、
 隠喩が次々続く体系であり、
 音楽の律動と諧調の魔法を説き、
 おのれの感性の反響を読者のうちに呼び覚ます作用。

と前提すれば、北原白秋「邪宗門」の序と例言、

 詩の生命は、暗示にして、単なる事象の説明にあらず。

など一連の自らの象徴詩の説明に、矛盾は見出せないうえ、
十分な咀嚼と共感のうえに、詩集を編んだことが見えてきたのである。
  











2017年8月29日火曜日

邪宗門その3

具体的事物をもって、抽象概念を想起させるものが、「象徴」。
こう書くと、俳のようだが。

「夕暮れ」が象徴であるならば、
それが表現するのは、たとえば、次のような抽象概念かもしれぬ。
いのちの終わりの静けさ。
いのちの消滅。
闇のはじまり。
静寂のはじまり。
あるいは死後の安息。
ならば、
マラルメの純粋観念notion purに近い。

仮に命題とするならば、

 夕暮れという象徴を、一冊の詩集としてうたった「邪宗門」。

だとすれば、それは
十九世紀末の西洋の文化潮流を継ぐような仕事だった。
古今の夕暮れの時間をうたった詩歌は、
もちろんたくさんあるのだが。
同集は、ほぼ全編同じ主題の下にある。
綴られた夕暮れの詩句を抜いて、喚起する象徴を見ることにしよう。

 暮れなやみ、噴水の水はしたたる
 外光のそのなごり
 わかき日の薄暮のそのしらべ
 その空に暮れもかかる空気の吐息
 黄昏の薬草園の外光に
 夕暮れのもの赤き空
 やわらかに腐れゆく暗の室
 黄の入日さしそふみぎり
 うち曇り黄ばめる夕
 薄暮の潤みにごれる室の内

このような詩句が「邪宗門」に、
ちりばめられているのだが、
喚起されてゆく抽象概念、象徴は何だろうか。
西欧の象徴詩にとっての夕暮れは、
身を締めるような冷えた秋の夕暮れにも思えるのだが、
白秋の夕暮れはどこか、
南国へ入って急激に身体の細胞が開くような、
暖かさであることに気づく。
滅びへ、腐りへ、
あるいは、これは重要だが、どこかへと戻ってゆく感覚。
回帰する場所を魂が探しているような
それは、

 曖昧な、短い時刻の、朧な大気

が呼び起こす、原型的ものかもしれない。
没落と安息と。
前の世を、前の人生への回想を、誘発するのかもしれない。














2017年8月26日土曜日

邪宗門その2


芭蕉は最大の象徴詩人、と野口米次郎が言ったので、
「象徴」にこだわりを続けているのだが。
最初に戻って、概念を明瞭にしてみる。

 抽象的な概念を、より具体的な事物や形によって表現すること。その表現に用いられたもの。

 記号のうち、特に表示される対象と直接的な対応関係や類似性をもたないもの。

 直接的に表しにくい抽象的な観念を想像力を媒介にして暗示的に表現する手法。

とある。

次に「象徴派」という訳語をあてたのは上田敏で、
明治36年の雑誌「明星」の上でだ。
以後、斎藤茂吉が「象徴といふ語」というエッセイを書いていたりする。
標示派、記号派 表象主義、表徴派などという訳語もあった。
象徴は、上田敏から始まった。

では仏蘭西象徴詩の象徴とは何か。
ステファヌ・マラルメの言葉は次の通り。

 対象を名指すことは、
 少しづつ謎を解いていく幸福から成り立つ詩の喜びの
 4分の3を奪う。
 暗示することに意味がある。
 この神秘を使いこなすことで、
 象徴がつくられる。

しかし、この言葉はどこか奇妙だ。
象徴を説明しているとはいえない。
マラルメが詩作のうえで志向したのは、

 詩的言語によって純粋観念notion purを喚起すること。

という言葉のほうが、象徴への直截で納得できる説明になる。
現実的言葉との関係を遮断、拒絶することで、
事物の超感性的な原形イデーというものを発出させること。
そのための手法が、暗示なのだ。
情趣ではなく、観念、形而上的な原型を指すに違いない。

さて上田敏「海潮音」。
含まれる十四篇の、いわゆる象徴詩に、
黄昏、落日の光景が描かれていることに気づいたのは
「日本近代象徴詩の研究」の佐藤伸宏。
秋の凋落、落日という主題は、
十九世紀末の世紀末の仏蘭西
象徴詩を代表するものだったらしい。

だとすれば、
飛躍はするが、
上田敏に限りなく影響を受けた北原白秋の「邪宗門」は、
秋の落日の主題を、
春の黄昏時間に、
置き換えたものだと考えられないか。
百篇の詩を通して、
一冊の詩集は、
 
 暮れなやむ晩春の室の内……

という主題を、
あるいは場所論を、
ひとつの象徴にまで、
昇華させた詩の表現、とはいえまいか。
それほどの大きな、驚くべき仕事ではなかったか。











2017年8月25日金曜日

邪宗門

桂黄葉
佐藤伸宏「日本近代象徴詩の研究」の、
「象徴詩の転回---「邪宗門」論」を読む。
詩集「邪宗門」冒頭の、

   情趣の限りなき振動のうちに、
   幽かなる心の欷歔(ききょ)をたずねる。

白秋自身のいう「情趣」は、
「イメージ」と置き換えるべきかもしれない、と思った。
そうすれば、白秋のいう「象徴」が少しは理解できると思うのだが.
上田敏、薄田泣菫、蒲原有明らを引き継ぎ、
象徴詩を目指した北原白秋の詩集「邪宗門」の、
いったいどこが、仏蘭西からもたらされた象徴詩を追求したものか、
を感じ取り、説明することはやはり難しい。

白秋の特質を木下杢太郎は、

 「邪宗門」の詩は、主として暗示(サジェッション)である。
 仏蘭西印象画派、新印象派の手法のように、
 単に、光線の振動、原色の配整であり、
 簡単な心象および感情の配列である。

 作者は、自然からその好む元素を選び取って、
 詩章に織って、開展する。
 しかしただおぼろげなるものを暗示するのみである。
 
 美しい動詞によりて綴られた
 美しき名詞の列である。
 これらが、相似る情調を惹起するように選ばれている。

と書いているが、
この書評が、白秋の象徴詩へのもっとも的確な指摘らしい。

ところが、
三好達治は辛辣だ。

 詩はひたすら横すべる。
 つじつまを合わせるように詩語を置き換え積み替えしている。
 さまざまな刺激語で、脚光を浴びせようとしているが、
 どこまでいっても同じ平面のうえをうろついている。
 そうして後は、徒労と焦燥感が残される。

と書き、羅列、併置、単調さへの、
当時から現代にいたる、白秋の象徴詩への批判の意見を代表しているそうだ。

だが、佐藤が明確に指摘するのは、
三好達治が否定したことこそが、
白秋の確立しようとした象徴詩の方法ではないか、と推論する。

基底とする気分、情趣を置き、
そのうえを、いくつもの幻想、想念、イメージが、
塊として、併置、羅列、連続していくこと。
その塊の間には、論理の一貫性、脈絡を介在させないこと。
この方法によって、
「邪宗門」冒頭の、
「詩の生命は暗示にして、単なる事象の説明にはあらず」が実現し、
ひとつの統一されたイメージの世界が出現する。
脈絡は「感覚」であり、
「論理」には置かない。

わずかに、
白秋の詩集「邪宗門」は抒情詩集ではなく、
上田敏にはじまる、
あるいは仏蘭西の象徴文学概念による
詩作の試みだということが、
浮かび上がっきたのだが。

では白秋の象徴詩のもたらした「暗示」「作用」は、改めて何か。
それは次回。















偶 々

未明の地震ののちの朝焼

橙の 昏れながき日の 君子蘭
乳の色の 昏れながき日を 輯(あつ)む窗
饐へ萎へて 腐たしはじむる 百合の馨の 
百合の馨は 饐へ萎へ腐たす とき圓き
夏のソロ 時間コロロ ホロムが滴(した)る
赤だりあ 乳(ち)の色ゆふべ 嘘懺悔 
夏昏れが 赤灰色の 風の儘
其の揚羽 此の被差別より 生(あ)れたるか
此の星の 此の被差別の 揚羽哉










2017年8月22日火曜日

葛原妙子

Rose
たそがれどきのわずかな時間に垣間見るのは、
そのひかりのむこうにあるものだ。
物象の奥処の、形のない、形而上の、イデアの、と、
さまざまに表現されているものへの、あくがれ。
三木露風は「黄昏の詩想」と呼んだ。
そこに永遠の世界への幻を、垣間見る。

葛原妙子の第一歌集「橙黄」(昭和25)を読む。

 橙黄色の
 花筒仄明かる
 君子蘭
 昏れながき微光を
 背後に持てり

は、夕暮れのたゆたう時間の、落ち逝く西日が弱弱しく差す室内で、
植物の吐息で薄潤んだ空気が靄がかる温室で、
蘭の花の周囲が、仄明るく見え続ける、という意味かもしれない。
昏れてなお、光を放ち続けるうすぼんやりした花の輪郭のアウラを、
密かに観照しているのかもしれない。
「黄昏の室内」は、
詩史に繰り返し登場するイメージの、バリエーションだろう。
イメージのもとは白秋かもしれない。
だから、幸福で永遠なるものへの、暗喩が漂っている。

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの「色彩論」の、
生きものやモノの背後にある光、エーテルを発見するくだり、を思い起こす。
夕暮れの、薄暗い食堂。
逆光の中の女給が去ったあとに、
ひとがたに残る光の塊。
それがエーテル。

植物は天体とかかわりで、動いている。
植物は恒に天体の力を、感じ取っている。
宇宙の向こうから、
たとえば赤色が働きかけるとき、
地上に到達するまでに一度、
レムニスカート曲線を描くそうだ。
それは宇宙の調和の力、美だ。

天体の力を、
中世まで、「エーテル」と言い、認識されていた。
エーテルの力を受けて、
植物は花々を形成する。
葛原のいう微光とはエーテルかもしれない。
モノに纏い、モノを包む、生命体の宇宙の力、だ。











2017年8月19日土曜日

上田三四二

Morning glory

 人生より長らえる墓石は、それ自身一個の生の象徴である。
 詩は墓石のようなものでなければならぬ。
 感情はいったん死に、象徴として甦る。
  すべての詩は象徴を目指す、といわねばならぬ。

明治時代の詩歌の美しい言葉の源へ、視野を広げつつも、
象徴とは何か---という長い道のりの、緒に着いたばかりのわたくし。
マラルメや上田敏、薄田泣菫、蒲原有明、北原白秋の仕事を正視する日々の一方で、
歌人上田三四二の詩論「詩的思考の方法----あるいは隠喩論」(1965)を読む。
知らず象徴作用に到達する一論だった。
幾つかを抜き出したい。
短い中に、よい言葉がたくさんある。

 詩の跳躍は、論理の絶えたところからはじまる。
 推論のゆきづまった地点でなされる。
 詩の言葉が極端に少ないのは、跳躍に息を詰まねばならぬからだ。

 詩人の飛躍は、比喩によってなされる。
 類推と暗示と象徴の、言葉の曖昧さ複雑さに由来する語法の混乱を盾とする。

そして、

 言葉は、語源につながることによって、
 というよりも、語源を見通す歴史の厚い層の中に、
 人間の込めて来た、無数の感情の彩りを感得することで、
 はじめて詩語たりうる。
 詩の思考の跳躍とは、
 この無数の感情の糸を、いくつか、そして新しく結びなおすことだ。
 結びなおすことで、未来への予言を盗みとる。

 芭蕉の、藤そのものが心に沁むのは、
 白氏文集が、後撰集が、徒然草が彼の血に溶けていたからだ。
 東方の、ひとびとの感情の凝集としての藤の花が、
 彼の口を借りて表現にいたったのだ。

 ふたつのあいだには、
 おそろしいほどの断絶があり、
 断絶を飛び越えて、感動がモノに放射されるとき、
 モノは感動そのものへ、転化する。
 感動からモノへ。
 この転移のうちに、感情の比喩は完成する。
 感情の比喩は、隠喩である。

 隠喩metaphoreと移調transpositionは同じだ。
 もと一箇所から他所に移し動かす意である。
 感動はモノだと知るとき、隠喩は遂げられ、
 詩になる。

 詩による思考とは、言葉によるモノの発見である。
 モノのシンボル化をもってする感情の開発にほかならない。

 詩が、「現実の強化」であり、
 詩的思考の方法たる隠喩の指し示す新たな発見である。

 現実の強化とは、
 象徴のうえに象徴を重ね、
 象徴の次元を高めることによって、
 その体系を精妙にすることである。
 生きるとは、象徴を織る、ことにほかならない。

 茂吉は、写生のゆきつく果てが象徴だと信じていた。
 茂 吉の写生を祖述し、繊細微妙な表現に、佐藤佐太郎は到達した。
 白秋は、幽玄の澄むところに、象徴の絶対境を見た。

 塚本邦雄は、
 アララギには人間学と自然学があっても、美学がない、
 と凹所を衝いた。
 詩の機能をもういちど験そうとした。

 詩の手法においては、隠喩の強化が。
 詩人の要請としては、人間的共感の回復が、
 相互を媒介しながら、詩に結晶させることである。
 このとき言葉は、
 神話時代からの強烈な感情の負荷の記憶を重ねて、
 未知の、論理の及ばない、新しい認識を開いてゆく。










2017年8月13日日曜日

古代の精霊の


 詩は隠された生の啓示である イエーツ

詩論集「詩と神話」(1965)は星野徹の三〇歳を少し過ぎたころの論だが、
若いにもかかわらず、詩への自己同一をゆるぎないものにしていたことに驚く。
詩の方法も技法もだ。

この詩論で展開されている内容を背景に、
詩歌俳の実作者は、どれほどいるだろう。
原型的イメージから、詩歌俳を分析する批評家がどれほどいるのだろう。

星野徹は書く。

 原型的イメージは、汎民族的な集合的無意識の底に堆積している経験の型である。
 再び意識の表層へ浮かび上がる機会を待っている。

 原型的イメージを、詩的芸術を通じて、呼びさますことができる。

 真に象徴的な詩作品を読むときに受ける感動は、
 作品のひとつひとつのイメージが原型的イメージを呼び起こし、
 原型的イメージが再構成、再表象される過程で成立するものだ。

 古代で近代を照射し、近代のもろもろの経験の原型を古代に求める。

西脇順三郎の詩「失われた時」について、
彼自身の内部に依然として生きている古代的精霊の投影を、
三好豊一郎の詩「夢の水死人」について、
洪水伝説、漂着神信仰を、
草野心平の詩「森」には、
植物靈に対する古代人の感情の同質性を、見出している。

日本の現代詩のいくつかに表出された、
いわば「神話の復活」、「神話の浮上」という意味だろう。
日本の詩歌俳には、ギリシャ神話も、聖書もないから、
人類学が収集再構築してくれる類型を詩領域に借用し、手がかりとし、
経験の原型を追求し、現代を解釈するという方法を採れ、と書いている。

古代の信仰が木霊して、
古代の精霊のシンボルが顕れるのを待つ、
のが日本の詩歌俳の方向ではないか、と。

なぜある詩に、たくさんのひとびとが感動するのか。
そこに原型的なものがあるからだ、と。
だから原型的なものを掘り出す、仕掛ける仕事をせよ、と。



















2017年8月12日土曜日

知里真志保


アイヌ学者知里真志保の,
「分類アイヌ語辞典植物篇」(1953)を読むとき、
ひどく懐かしさがこみ上げてくる。
かつての蝦夷の人々の、
葉や實、茎、根を煮て食い、樹皮を乾かし薬にする暮らしに。
時に魔よけなどの呪術的な考え方に。
蝦夷の人々の草や木との濃密な関係は、
当然のように、このわたくしも、もっている。

身の回りの草や樹木を見渡すとき、
そこにどんな名があり、働きがあるか、
どこまで知っているのだろうか。
ほとんど知らないのだ。
草や樹木の名を知り、働きを知ってから、
死なねばならない。

 ペロコムニ(ミズナラ)は素性のよい樹で、
 三又になっていると、山の神の木、として大切にされた。
 薪にしてはいけなかった。
 實は煮てつぶして、餅にした。

 樺太で、イソカルシ(マイタケ)を採るときは、
 必ず、槍を構えて、突く真似をしてから、採る。
 熊を獲るときと同じく。

 ラルマニ(イチイ)の實は、
 肺や心臓が弱い人々へさかんに勧めて食べさせた。
 樹皮は赤く染める染料として煮た。
 内皮は乾燥させ保存し、下痢止めの薬にした。

 フプ(トドマツ)の枝は、
 悪い夢を見た朝に、その枝で体を払う、儀式(ヤエピル)で使った。
 清めの悪魔払いだ。

 ウクルキナ(ギボウシ)の葉は、
 細かく切り刻んで、米や粥に炊き込んだ。
 鍋で煮て、カエデやシラカバの樹液を醗酵させたものを混ぜ、
 濁り酒を造った。

 コムニ(カシワ)の實は保存し、
 冬になると、白い中實を豆と一緒に煮て団子にする。
 ニセウラタッケというどんぐり料理のご馳走だった。

 トペニ(カエデ)は早春の樹液を飲んだり、樹液で飯を炊いた。
 煮詰めて飴にした。サンザシやキハダの果汁を加え、醗酵させた。

 なにより、蝦夷のひとびとにはチキサニ(春楡)が親しかった。
 火を起こすチキサニは、母なる女神だった。
 チキザニからは善神だけが生まれた。











2017年8月11日金曜日

偶 々

当帰
偶  々(蝦夷言葉)

秋顕てば あへかなる靈(ひ)も そひにける
火の神の 春楡姫の 早黄葉
蕗の葉で 煮る雨の粒 飴の玉
黒百合の すわつてをりぬ 雨の中
蒲公英の ぽはぽんと云ふ 小(ち)さきもの
あへかとは 蜩の降る 闇四方(あたり)
穐おもふ 面念思憶懐想惟 何れにて
空の聲 未明に落ちて 穐顕てり
さはれ、いま 空の聲落つ 穐顕ちぬ
只管(ひたぶる)に 受く裸體にて 夏嵐