2017年5月21日日曜日

葛原妙子歌集「葡萄木立」


葛原妙子歌集「葡萄木立」(昭和38 白玉書房)を読む。

風ふけばいっせいに躍る光球葉洩れの太陽光さわぎたり
化粧水たたへし壜のたふれゐる窓より青き草生は近し
ひとつならず箱ちらばりて更けしかば箱の中にも溜る月光
葡萄の木にぶだうの花過ぎをとめは瞼のかげに大き目をやどす
一枚の玻璃はつめたきつらなりし山脈は葡萄のごと翳りそむ






2017年5月11日木曜日

偶 々

アズキナシ


滴りて座を固めゆく我れは此處
花を煮る浄められたる夜の窗
火星より転生したる紫蘭哉
智慧墜ちて三つ葉通草は咲きにけり
櫻の顆(み)鍛金銅の渡來佛
亜麻(りねん)着てしづかなるかな風儀の夕
濛(こさめ)てふ潦(にはたづみ)てふ古語に遇ふ
天數(あまかざ)ふ七星より音(をと)なふる












2017年5月8日月曜日

古代言語

芍 薬



詩人の八木幹夫が、
唐突に「古代言語論へ」と話したのを、連休最終日に読む。
言い知れない感情が湧き上がった。
ともかくも表現の場所があろうとなかろうと、
言葉を扱い続けるものは、
古い言葉、言葉の古層へと、
いづれは遡らねばならない。
隠喩ではなく、直裁にだ。
古代の言葉とつながっているという自覚は、
今生の内的な充実を生む。
言葉を再生する試みでもある。


折口信夫にそのような論考「古代中世言語論」(全集12所収)がある。
注意深く読む必要がある。抜書する。


 記紀に、象嵌の様に、古詞章が入れられてゐるといふ事は、何を意味するか。結論だけを、簡単に出すと、即ち其は非常に重大なる箇所であつて、其を失つたら、神乃至は宮廷の神聖に対して、申訣がたゝぬといふ気持があつたからの事であらう。この暗黙の制約がもしなかつたら、古事記などは、もつと漢文流にゆけた筈であつた。


 古くから伝承してゐる詞句には、国のすぴりっとが宿つてゐる――国の威力が籠つてゐると信じた。だから其国の重要な位置にある人は、必ず之を受け伝へなければ、威力がなくなつて了ふ。その為に、どうしても、この古詞章は覚えなければならなかつたのだ。かうして伝承されたものがことわざで、その一部分がうたである。


 讃詞は、現状を讃美するのが本旨ではなくて、さうなつてくれゝばいゝといふことを、相手たるすぴりっとに言ひ聞かせる、すると精霊は、其発せられた詞章に責任を感ずる――客観的に言へば、言葉の威力によつて、相手をちやーむさせる――即ち、言葉に感染させることだ。


 讃詞は、従つて、国のことか、神か乃至は神に近い生活をするもの、譬へば領主などに関するものが多いのは当然である。国と言ひ、神といふのも、結局は一つで、土地の領主を讃めるといふことは、その土地の神を讃めるのと同じ効果と結果とを持つ。











2017年5月6日土曜日

奥六郡と奥七郡

「奥」という漢語の意味の、どの深みへと探るべきなのだろうか。元茨城キリスト教大学で教えていた安部元雄の「旅に出た八幡太郎」(崙書房、1978)は、県内外の八幡太郎伝説採取で知られ、人気のある一冊だが、ここに「奥」にひっかっかている安部の記述が興味深い。 

 「奥六郡」は、陸奥国中部に置かれた胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。だ。八幡太郎源義家による後三年の役で、最終的に「奥六郡」は、安倍頼時の孫で、藤原摂関家の末流を名乗る藤原清衡が滅亡までを支配する。
 
 「奥七郡」は、常陸国北部にあった多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡の総称。「新編常陸国誌」に出てきており、それは佐竹氏の初期の所領を指す。佐竹一族は、未開地を開墾しながら、開発型の領主となって支配を強めていくのだが、なぜ佐竹所領の奥常陸を奥七郡と呼んだのか、を安部は、次のように書いている。

 佐竹の領主層に脳裏には、
 前九年の役の、後三年の役の、
 従軍した際の、
 清原一族による奥七郡の在地支配形態があったとすれば、
 源義家を通して
 その支配形態を模倣したいという願望を持つのは当然だ。
 初期佐竹氏の呼称に、
 そのような願望を感じる。

東国豪族たちが、後三年の役ののちに各地で、
開発型の領主となっていく現象があちこちで、見られるのだそうだ。
陸奥の「奥六郡」には、何がしかの驚くべき先進性があったようなのだ。
呼称が、義光の常陸の奥七郡へと、飛び地のように、飛んでしまった理由も分かる気がする。

 昌義盛ナルニ及ニデ
 皆其ノ下風ニ従ヒテ
 奥七郡ノ郡務
 皆源氏ニ帰ス   (新編常陸国誌)

今わたくしの棲む、
此処もまた
奥七郡であろうということだ。
八幡太郎義家の陸奥守としての支配権行使の、
「名残」だと、
思わずにはいられない。










2017年5月5日金曜日

井 月

やまつつじ
石川淳全集第10巻は、
小説の「渡辺崋山」が収録されていて、
立原杏所の、崋山あての書簡があって面白く読んだが、
杏所と崋山の関係については、別の機会にするとして、
天保から明治にかけて生きた、伝説的な俳人の井上井月の、
評論のような随筆のようなものが併録されていた。

昭和5年の「井月全集」と、
雑誌「科野」に掲載された「井月全集拾遺」と、
わずかな伊那谷への旅行、
とによって書いたのだと石川淳自身が言っているので、
随筆であるのか。

前提として、井月の伝説性をつくったのは、
優れた「編集者」がいたからだと思う。
井月の俳の魅力を上回る、力量があったのだと考える。

越後からやってきて、
以後30年も、食客でのみ生き、
最後は野たれ死んだ井月。
井月55歳から65歳にかけての目撃談があって、
いつでも袴を付け、
酒を入れる瓢箪と木刀を腰に差した
とぼとぼのぐづぐすした風貌だったらしい。
鼻つまみの嫌われものの乞食だった。
老俳諧師は、伊那谷で30年、飲酒中毒の、乞食であった。
最後も惨めである。
66歳の二月、
道に捨てられたも同然に、
つぶれたようにくたばった。
行き倒れである。

 風来坊の身柄を最後に引き取ったのは、枯田の中の、道であった。

救いはひとつだけ、ありそうである。

 そのこころいきにおいて、トボトボのグズグズながら、
 遠く蕉風の片雲にぶらさがっていたからに違いない。

元武士の、芭蕉の「幻住菴」を唯一の教えとし、
骨法としての蕉風に
村人たちが、その品を垣間見たのかもしれなかった。

しかし、
常々考えている。
俳諧師だから乞食にまで落ちぶれたのだと。











界 隈ー三田















2017年5月2日火曜日

崋 山

イタヤカエデ

菅沼貞三の「崋山の研究」(昭和22)を読んでいる。
菅沼貞三は、幕末の画人・渡辺崋山の、高名な研究者だ。
というより、画業の全貌を調べた唯一の、美術史学者だ。

以前、どこかで読んだのだが、たぶん図録なのだが、
崋山作品の真贋を見極められるようになった経緯を
披瀝していたのを興味深く読んた。

 崋山作品の、明治から昭和にかけての、
 大名家や武家の「売立目録」の同じものを、3部集める。
 数百冊にもなるのだが、
 それらに収録されているうちの、明らかな贋物から、破り捨てていく。
 そうしているうちに、真筆が浮かび上がってくる。

年月をかけているうちに、
おびただしい伝崋山の書画のうちに、
真筆が浮かび上がってくるのだそうだ。
このようにして、菅沼自身の鑑識眼ができていった。

崋山はおそろしく自省の強い画人だった。

 画の詳しきことを欲するならば、筆を埋めて、鐵を研ぐにしかず

と、日記にあるが、
漢画、古画の模写、書画鑑識への努力にいそしんだ。
その修業の果ての、きびしい気魄。

崋山画業を明らかにした菅沼の努力もまた、
美術史家の鑑だと思える。