2017年9月30日土曜日

渋沢孝輔

桂並木が燃えてゐる
詩人渋沢孝輔の詩論を2冊続けて読む。
「螺旋の言語」(2006)と「蒲原有明論」(1981)。
上田敏から北原白秋へつながる明治の詩歌のラインの真ん中にゐる、
蒲原有明について書かれている。

かような、生まれつき詩の傍にいた人の詩論は、ことごとく面白い。
彼岸から、詩集ばかりの書斎を、此岸にそのまま移してきたような趣からの、
ある霊感のようなものをいただく瞬間が喜ばしい。
そして休日の朝に、書くことのできる喜びもだ。

古体へのやみがたい憧憬の所有者、として蒲原有明を見る。
というよりも、生まれつきの詩人が、自己投影をしているようだ。
生きるということは、詩を探すことらしい。
詩は日本語の深い場所にあるのだが、
なかなか届かないらしい。
それでも詩に触れていると、
時々深みが顔を出すことがあるらしいのだ。

有明に対しては、
詩と言語の根源にまでさかのぼって、
方法上の模索を余儀なくされている、ことへ、
純粋詩の志向を持つ象徴詩であることへ、
これを藤原定家と同列に置き、
美学の根を、この国の伝統的感性の中に探った点で、
共感している。

古体へのやみがたい憧憬、という言葉をふたたび。
象徴概念云々よりも、
この古きものへのやみがたい衝動こそ、
もっと解かれてよいかもしれない。
その衝動を集める作業だ。

有明が、芭蕉を「象徴詩人」と呼んだことは、
当時としては斬新だったそうだが、
芭蕉を評した、

 凡を練りて霊を得たり

とは、実によい言葉だ。










2017年9月24日日曜日

禅那と正思惟

 Lilium 'Casa Blanca'
スーパーで580で買ったカサブランカは、
1週間かけて開花し、まだ6房もつぼみのままだ。
うまくゆけば一ヶ月は咲いてゐてくれそうだ。

「国訳大蔵経」の「般若心経秘健」の読み下し文の
空海の文章が、きりりと美しい。
これを自分のものとしなければならないという気持ちになる。
リズミカルに畳み掛けてくる。
ふだんの朗読、朗誦にふさわしいものを感じる。
噛み砕く説明もない、これだけの短文の連なりで、
よく合点がいったものだ。
その知力に恐れ入る。
空海は、これほどの語彙をいつの間に吸収したのだろうとも。
「般若心経秘鍵」原文2行目を考えてみた。

 無辺の生死を如何んが能く断つ。
 禅那と正思惟のみあってす。

輪廻転生を繰り返すことを断つために、できることは何か。
それは禅定と正思惟だ。

まず禅那。
定(じょう)、静慮(じょうりょ)などと訳す。
定は「三昧」。
定は、ただ消極的、受動的な状態、恍惚境とは違い、
三昧によって、事物の正しさが理解できる働きのこと。
「覚」の立場から世界を再認識できるようになること。
さらに、その働きは「慧」と呼ばれる。

次に、正思惟(しょうしゆい)。
自己中心的な考えを捨て、
強欲、怒り、虚妄の貪瞋痴(とんしんぐ)の三毒に惑わされず、
正しく考えること。
成功を収めて幸福に生きていきたいと思うならば、
思考を正さなくてはいけない。
思考を正せば、行動は自ずと正しくなる。
















2017年9月22日金曜日

心経秘健

如来。
菩薩。
明らかに実在している。
彼岸に。
此岸に。
その気配を感じる。

空海の、加藤精一訳「般若心経秘健」を読む。
焼肉を男女で食うのを我慢して、
「望月仏教語大辞典」を購入したあとに。
同書は空海が晩年、密教から解釈した般若心経の功徳を書いた。
真言宗では「読誦経典」である。

もとより、仏教を実践するというのは、
此岸で正しい智慧を身に着けて、
彼岸で迷わないためである。
地獄へゆかないためである。
空海が語る。

 これを誦するだけで、無知から解放される。
 ひとつの文字に、千もの真理が含まれていて、
 この世にいながら、大日如来の住む世界とともに在ることができる。
 確実に、悟りの境地に居る。

 心経の密教的深旨を理解するには、
 密教眼をもたねばならぬ。

 心経の一字一句は、法界に遍満している。
 内容は過去現在未来を貫く。
 心経によって無知を断て。
 邪魔する魔軍を撃破せよ。

 どうやって彼岸に渡るべきか。
 心を鎮めること。
 正しい智慧を養うこと。
 心経を保持、講じ、写し、供養せよ。

これから、般若心経を講じる空海に添うことにする。













2017年9月17日日曜日

三 蔵


上田敏の訳詩集の名「海潮音」が、
佛の聲、という意味だと知ったとき、
明治期の、ある文学者の深層より、
脈々たる日本仏教の霊性が奔出したのだ、と思わずにはいられなかった。
だから、
上田敏から北原白秋へ続く美しい日本語、はわたくしのテーマだ。

結論から言うと、
わたくしの人生はとても間違っていた。
真理を知らずにいた。
此岸と彼岸は連絡していて、死後は間違いなく彼岸にゆくのだが、
此岸で彼岸を信じ、できるだけ人を幸せにすることだ。
言葉と態度を正しく、やさしくするだけでもよい。

ただ、真理は掘り出すべきものでもあるだろう。
「昭和新纂国訳大蔵経」第2巻「解説部-仏典解説」(1930)を読んでいる。
釈迦入滅後に生まれた仏典が300以上もあり、
おびただしい訳僧、三蔵法師らによって、音写による漢訳が、ある時代まで行われた。
これら経典の多くがこの日本においては、忘れられようとしている。
このひとつひとつの経典に、
此岸と彼岸を貫く、厳かな真理が綴られていること、を改めて知る。

唐の義浄が訳した「金光明経」は国家守護、
天部崇敬の経典。
聖徳太子の四天王寺は、この鎮護国家の教えをもとに造られた。

唐の智通が訳した「千眼千臂経」は、
千手観音の大用を説き、
25の印契と咒を明かしている。

「観弥勒菩薩上生兜率天経」は、
弥勒菩薩の住んでいる兜率天の相を明らかにしている。
未来世を思い、戒を持てと勧める。
「兜率往生」は「極楽往生」とともにかつては盛んだったらしい。

本邦仏典の項も初めて知ることが多く、興味深い。
いずれのかたがたも、巨人として、立ちはだかる存在に見える。

華厳宗から真言宗に帰した明恵の「光明真言土砂勸記」は、
「光明真言」の23字の字義、功徳を説く。
現代と異なり、多数の著作の中でもこの一書を取り上げているのはなぜか。

円仁の「金剛頂大教王経疎玄談」は、
密教史上不朽の功績だそうだ。

空海の「般若心経秘健」は、
密教から心経を説く。

元寇を予言したのは僧日蓮。
太平洋戦争で国土の焼け野原を幻視したのは、古神道家の出口王仁三郎。
いずれも迫害を受けた。「空襲警報」の鳴る中で、思い出した。
仏教について、何も知らずに、ここまで来てしまった。
あと15年全力を尽くそう。
詩歌俳でしたように、
ひとつひとつの仏典の概念を確認し、多方面から眺め、
加えて、写経するのだ。
彼岸を知り、過去、現在、未来を知る道があるはずだ。
きのう、
真言宗六地蔵寺の住職が、
空海は加藤精一訳がよいと勧めてくれた。
深いところから言葉が出る住職だった。
中村元の仏教語辞典は旧来の仏教観で弊が多いという。
唯物史観が支配しているそうだ。












2017年9月11日月曜日

未確認飛行物体

9月11日18時9分
水戸市緑町の集合住宅4階より、南方向、千波湖畔上空に、
銀色の発光物体3点。
数秒で消失。







良経

偕楽園梅林

定型詩人はもともと、
傷つき、失われていく日本語と、
やわらかい大和言葉と、きびしい漢語を、
労わり、守り、蘇らせる使命を持っている。
そのために、
目の前にみえる現実と自分の経験のみを
忠実に記録するのだという間違った考え方をする必要もない。

「狂言綺語」という古い仏教の言葉がある。
誤ったたわ言、むやみに飾り立てた言葉のことで、
和歌や物語などを卑しめていうのに用いるらしいのだが。
平安以後は、
仏教への機縁たりうるものとして価値転換した。

塚本邦雄の藤原良経の秋篠月清集を論じた「冥府の春」に、
ふいに、良経の和歌の特質、
特に妖気性、退廃性を説明する言葉として登場した。

 狂言綺語の毒は、
 霊薬にひとしい効力を発揮した。
 起死回生の、麻薬のような綺語を、
 定家に先んじて、わがものとしていた。 
 定家は、良経に示唆され、触発され、躍らされ、
 体得し、職業の秘密とした。

と塚本の書く内容は、
見ぬ世つまりは冥府と、
現世をつなぐどこかの場所で、和歌をつぶやいている
良経の姿と良経の歌がいかに異風だったか、ということだろうか。
良経は、藤原俊成に和歌を学び、
俊成の歌論書「古来風体抄」で示される、
「狂言綺語観」による幻想的な詩趣を、
引き継いだとも言えそうなのだ。
新古今和歌集が「象徴主義」といわれる理由のひとつが、
ここにあるのかもしれない。









2017年9月9日土曜日

偶 々

偕楽園梅林の朝

銀皿の 酸漿の朱の 佛性論
夏の夜に 儒波窶玉(すばるのたま)を 降ろしたる
梨齧る 紺碧の乞食 僧侶とて
紗(うすぎぬ)の 翼浮かびぬ 穐空に
土器(かわらけ)は とほい琴座に 顫へをる
神曲の 百合の六辨 斷面圖
歪形眞珠(ばろつく)の 程の明るき 穐の晝
仮初の だいやもんどの 炭をつぐ
韓藍(からあゐ)も 呉藍(くれなゐ)も待つ 夏翳り
ひきちぎる 朱柘榴の實を 殺生戒
夏衣 うすき絹繻子(さてん)を 隱したり
本繻子の 向かふ過(よ)ぎたり 夏の翳 
穐咲きの 白山吹の 冷たさよ











2017年9月3日日曜日

「ドゥイノの悲歌」


此の朝、独逸文学者で作家の古井由吉の「詩への小路」(2005)を読む。
此の作家の文体は、読みながら同時に、思索を誘う速度だ。
独逸詩人をめぐるエッセイだが、中でも、
Rainer Maria Rilkeの難詩「ドゥイノの悲歌」の翻訳を、
緊張感をもって読むことのできた貴重な朝になった。

天使への呼びかけで始まるこの作品は、
まさに天使、見えない世界をを希求する詩人の独語ではあるが、
その天使は、実在しているのだ。
そしてリルケ自身の立つ位置もまた、素朴な人間ではない、
とだけ書こう。
正直、わからない。
但し、
眼に見えない世界の秩序を俯瞰し、
媒介する天使存在の実在を直感した、
ことは理解した。
「ドゥイノの悲歌」について書いた手紙を堀辰雄が翻訳している(全集第5卷)。
うすぼんやりした輪郭がつかめる。

 我々の身のまはりにあり、そして役に立つてゐるところの自然とか、事物とかは、假初のものであり、脆弱なものではありますが、それらのものは、我々がこの世にあるかぎり、我々の所有物であり、我々の親友であります。

 それらのものは、嘗て我々の祖先たちのよき話相手であつたやうに、我々の不幸や喜びによく通じてゐます。その故に、この世のすべてのものを汚したり、惡くしたりしてはならない、そして我々と同じな、それらの果敢なき性さがゆゑに、それらの現象なり、事物なりを、もつともつと新しい理解をもつて把握し、それらのものを變化せしめなければならない。

 變化せしめる? さうです、それが我々の義務だからです。すなはち、それらの脆弱な、假初の、地上的なものを、その本質が我々のうちに「見えざるもの」となつて蘇つてくるほど、深く、切なく、熱烈に、我々の心に刻すること。我々は「見えざるもの」の蜜蜂です。我々は「見えるもの」の蜜を夢中になつて漁つて、それを「見えざるもの」の大きな黄金の巣のなかへ蓄へるのです。

 「悲歌」は、我々に愛せられてゐる、目に見え、手で觸れられる諸々の事物を、我々に自然に具つてゐるところの、目に見えざる動搖と昂奮と――それは宇宙の振動圈のなかに新しい振幅を導き入れるものです――に間斷なく置き換へることに全力を注いだ作品です。

 死は、我々の方を向いてをらず、またそれを我々が照らしてをらぬ生の一面であります。かかる二つの區切られてゐない領域のなかに住まつてゐて、その兩方のものから限りなく養はれてゐる我々の實存を、我々はもつともはつきりと認識するやうに努力しなければなりません。

 人生の本當の姿はその二つの領域に相亙つてをり、又、もつとも大きく循環する血はその兩方を流れてゐるのです。そこには、こちら側もなければ、あちら側もない。ただ、その中に「天使たち」――我々を凌駕するものたち――の住まつてゐる、大きな統一があるばかりなのです。そして今や、かうしてそのより大きな半分をつけ加へられ、ここにはじめて完全無缺なものとなつた此の世において、愛の問題が前面に出てまゐるのです。

 この世の目に見え、手で觸れることのできる事物を、より廣い周圍、もつとも廣い周圍のなかへ導き入れるといつても、なにも基督教的な意味ではありません、(それから私はいつも熱心に身を遠ざけてゐます、)そしてそれは純粹に地上的な、深く地上的な、聖らかに地上的な意識をもつてであります。それはその蔭が地上を暗くしてゐる來世の中なのではありません、それは或る全きもの、一個の全體の中なのであります。我々の身のまはりにあり、そして役に立つてゐるところの自然とか、事物とかは、假初のものであり、脆弱なものではありますが、それらのものは、我々がこの世にあるかぎり、我々の所有物であり、我々の親友であります。

 我々には、それらの追憶(それだけでは何でもないもので、誇るに足らないものでせう)のみならず、それらの人間的で、かつ「家神的ラーリツシユ」(家の神といふ意味での)な價値を保存するといふ責任があるのです。この地上のものは、我々の裡で、見えざるものとなる以外には、なんらの逃路をもつてゐません。我々の存在の一部をもつて「見えざるもの」に協力してゐる、(少くとも)見かけだけはそのごとくに見える、そして我々の生きてゐるかぎり、我々の持分である「見えざるもの」を増加せしめなければならないところの、我々の裡で。我々の裡でのみ、目に見えるものから、目に見えないもの――見えたり觸れられたりしてゐたことと――そのやうな我々はもう何んの關係もないもの――への内的な、永續的な變化が行はれるのです。

 「悲歌」の天使は基督教的天國の天使とはなんの關係もありません。(むしろイスラム教の天使の形姿に近いと云へるかも知れません。)……「悲歌」の天使は、見えるものから見えないものへの變化(それこそ我々の仕事です)が既に實現せられてゐるやうに見えるところの被造物なのです。「悲歌」の天使にとつては、過ぎし世の塔とか、宮殿とかは、ずつと昔から既に見えなくなつてゐるが故に、「實存」してゐるのです、そしていま我々の世界に立つてゐる塔とか橋などは、我々にとつてこそ實體のごとく存續してゐるけれども、天使にとつては既に見えざるものとなつてゐるのです。「悲歌」の天使は、見えざるもののなかにより高次の現實を認めることを保證してくれる存在なのであります。――その故にこそ、いまだに見えるものと關係してゐる我々、戀するものであつたり、或ひは變化するものであつたりする我々にとつては、天使は「恐ろしいもの」なのであります。

 宇宙のあらゆるものは「見えざるもの」のなかへ、かれらの最も新しい、最も深い現實のなかへのやうに、飛び込んでゆきます。二三の星は直接に上昇して、天使の窮みない意識のなかへ消え失せます。










未確認飛行物体

9月2日土曜日夕刻。
京成百貨店上空に銀色の玉。
5分後にわずかに上昇したのち消滅。
緑町4階より見る。