2017年10月31日火曜日

偶 々

Salvia 

上昇運動は
質料性の束縛を脱して
一段一段と
自己の精神的家郷に
還行する。

偶 々

穐光の 形而上學 圓かなる
質料の 穐光に輕む 途のうへ
ておりあは 搖るるさるびあ 叢の翳
彼岸とは 櫻紅葉の 樹冠哉
ドウイノの 異教の天使 穐薄暮
銀杏の 森黄金なる 錬金炉











2017年10月29日日曜日

指針

歴史館
わたくしはもう酒を飲んでいない。
人を憎んだり、
怒鳴ったり
人を批判したり、
していない。
ましてや、
自己憐憫に浸ってもいない。
リュミエールを探す
穏やかな日々を過ごしている。

あの黄金の仏像の前で座り、自然に肩が降りた時間と、
水澤有一の音楽と言葉が、
わたくしの、詩歌俳と文と、写真の仕事の、
これから、の指針になっているところだ。
いつか天を降ろせる日が来ることを願っているだけだ。
つたなくても、だ。


 売れればいいと思ったり、
 インスピレーションを受けたくて、
 酒やドラッグにおぼれ、
 朦朧となって曲を書く人もいるが、
 それではいい構想は降りてきません。
 心が地獄的では美しい楽想は得られない。

 曲のメロディーの形を突き詰めてどんどん純化していくと、
 結局、心の波動しかなくなっていく。
 だから、自分が本気で信じていること、思っていることしか
 実際、音にすることができない。 

 それはたとえばちょうどボクが気になって精一杯手を広げていると、
 さんさんと輝く太陽(仏)の光がサーッとさしてくる。
 その光によって身体の葉っぱがさらさらとオーケストラのようにそよぐ。
 その音がまさに音楽のイメージなんです。

 仏の神秘感を感じるために、もちろん感性を磨く。
 知性や理性の部分、すなわち音楽理論も磨く必要がある。
 音楽の世界で言う知性とは、和声、メロディー、旋律の力学の理解。
 その真剣な努力が踏み台となって、はじめて仏の世界に飛躍できる。

 カッコ悪くてもいいから、真実の価値に対してHi-Fiでありたい。

 理想を持つ大切さはブルックナーの人生からよくわかる。













2017年10月25日水曜日

空海の言語

短いけれども、井筒俊彦の「意味文節理論と空海」(全集8)を読み、
多年の不愉快さが消失した。
多年の不愉快さとは、言葉の深みをめぐる、さまざまな論のことで、
詩歌俳の言語が、どの深みに触れ、どの深みから発生しているかという問題を、
明瞭に答える人がいなかったことだ。

 内外の風気 
 わずかに発すれば、
 必ず響くを名づけて、
 聲というなり。       
 十界に言語(ごんご)を具す。 (声字実相義)
 これらは大日如来の言葉である。あらゆる世界は言葉を発している。

 真言密教は、言葉の「深密」に思いを潜めている。
 言葉の深層構造と機能を第一としている。
 「存在は言葉である」という命題があるのだ。

 真言密教が、第一義的に問題とする言葉は、
 普通に理解している言葉ではなくて、
 一段高いレベルにあるもの、つまりは異次元の言語である。

 「果分可説」の理念は、
 空海が、「弁顕密二教論」の中で、すべての顕教から区別する、
 決定的目印として挙げている重要な概念である。

 果分は、通常は、仏の悟りの内実のことである。
 あるいは、意識と存在の、究極的絶対性の領域、
 絶対超越の次元である。

 「言語道断」「言亡慮絶」という。言葉を超えた世界、次元ということだ。
 言葉では叙述できそうもない形而上の世界のことだ。

 空海の標識としたこの「果分可説」は、
 異次元には、異次元なりの、
 異次元の言葉の世界の働きがあるのだということだ。
 言葉のかなたにあるものを、
 しかしやすやすと放棄しないのが空海であるのだ。

 異次元の言葉はどんな根拠に成り立つのか。
 どのような言語の現象なのか。
 異次元の言葉として存在展開するのか。

 果分に、反対するのは「因分」である。
 因分は、通常の経験的世界、現実世界の言葉だ。

 「法身説法」は、大日如来の言葉。
 人間の語る言葉と根本的に異なる。
 しかしふたつの言葉の間には、連関はある。

 空海は、日常のかなたに、異次元の言葉の働きを見る------。
 形而上次元に働く特殊な言語エネルギーを認める。
 経験的次元にはたらく言葉の中に自己顕現する異次元の言葉、
 絶対的根源語だ。

 「山」は、概念輪郭に、惰性的に固定されているのだが、
 深層領域では、山という固定したものではない。
 誘導的、姿を変えているダイナミックなもの。
 意味エネルギーが、焦点を決めようとしている意味生成の過渡的動状態があるのみだ。
 漠然たるものから凝集しよとする意味エネルギー体である。

 唯識論でいう「種子」(しゅうじ)は、
 意味の種だ。
 形成途上の流動的体と、
 無数の意味が、
 深層意識の底に蓄えられているのである。

 だからこそ、
 深層的な意味世界存在喚起能力を持ち、
 存在創造的機能ともよぶべき、根源的な力を発揮する。
 
 その言葉の存在喚起エネルギーが、
 通常の経験次元を超えて、
 言語の表層と深層と、
 さらに超えた異次元のレベルまで遡及する。
 そこまでたどることができるのか。

空海を理解するには、空海の言語が、すでに日常語ではないことを前提にしなければならない。
日常のかなたの言語だ。
大日如来の言語を垣間見ては、
やがてそこにいたろうという意思を生む。













2017年10月24日火曜日

光の形而上学へ



占星術師の鏡リュウジが、井筒俊彦の「神秘主義」の定義を書いていた。
次のようなものだ。

 現実は垂直的多層性を持ち、
 通常認識されている以上の次元が存在する。
 それに相当する意識の多様性が存在し、
 意識の水準が変化すれば、
 現実の表れも変化する。
 
 意識が深まるほどに、
 表層的現実の背後にある存在-----「本質」の実相が、
 さまざまなイマージュとして浮かび上がる。
 その顕現、
 その表現、
 が
 さまざまな神秘主義の流派となっているのである。

かなりわかりやすい。
意識を研ぎ澄ます必要は、
高度に意識を研ぎ澄ます必要は、
その過程で現れるイメージに、
触れる、
抽出する、
渉猟する、ためのものだ。
そこに詩歌俳の世界もあるのだろうけれど。

井筒俊彦の生前最後のメモに「光の形而上学」とあった。
その流れをこれから追っていこうと思う。

アレテイア(真理)とは「隠れなきこと」という意味だ。
真理と光は同一視されるものだが、
パルメニデスとプラトン、
受け継いだ新プラトン主義者プロティノス。
〈光の形而上学〉を指していたのだろうか。

あるいは、ネオプラトンの、
シャハブッディーン・スフラワルディーの、
「照明派」学派を指していたのだろうか。

意識の多層性の中を上昇する努力を続けよう。
精妙な衣を纏え。
何も知らずに死ぬのは罪だ。










2017年10月17日火曜日

オルフェイスの碑文より


魂とは値打ちのあるものだ。
夜明けにきいんと一直線にやってきた響きは、
遠い場所、古代希臘からだった。
それは数日前、宇都宮の寺院の壁に張られた案内に見かけたものでもあった。

紀元前5世紀の、
オルフェイス教団の金の板の碑文が、近年次々と、
トリオイ、ヒッポニウム、テッサリア、クレタで発見された。
碑文に記された死者への言葉は、
迷路に陥らないための言葉。

 冥界に降りたとき、
 レテの水(忘却)ではなく、
 ムネーモシュネーの泉の水 (記憶)を飲むように。
 番人に次のように告げなくてはならない。
 「私は大地と星空の息子。
 喉が渇いたので、
 ムネーモシュネーの泉から、
 何か飲むものを、私にください」

古代宗教の字義はすべて、
現実だったという前提で読み込むことが肝要ではないか。
「譬え」と軽んじてはならぬ。
どの宗教にも指導する存在はある、のも前提ではないか。
碑文から何か、大切なものを読み取らねばならない。
次の碑文にもだ。

 われは星影清き蒼穹と大地の子なれども
 わが属するは、天の種族なり。
 おんみら自ら知り給うごとく。

魂は天に由来する。と書いてある。
オルフェイス教の教えは、
霊魂は神性と不死性を持つ。
悲しみの輪、という輪廻転生を繰り返す。
しかし、転生を解脱する秘儀がある。
生前の罪と死後の罰。
など。

井筒俊彦の「神秘哲学」の一文「輪廻転生から純粋持続」によると、
その秘儀は、「オルフェイス的生活法」と呼ばれた。
禁欲と清浄な戒律。
やがて引き継いだピュタゴラス教団では、
数学研究もまた、魂の浄化の方法として。

パルメニデスの詩歌発想の方法についてはまた別の機会に。






2017年10月15日日曜日

繁栄の法則


繁栄の法則がある。
他の人の喜びとなる生き方をするなら、喜ばれる。
他の人を害する生き方ならば、嫌われる。
単純だが真理だ。

「繁栄の法則」が存在している。
それは、
①自分の霊的人生観と一致する職であること。
②社会の役に立つこと。
③社会の評価が伴うこと。
「繁栄し続ける」「成功し続ける」は、
この3つが持続すること。

この法則を霊的に見ると、
①日々魂は、八正道のような精進をしているかどうか。心の進化が伴うか。
②周囲へより多くの感化、影響力があるかどうか。
③後世への遺産を残したい思いがあるかどうか。
そして
④守護霊指導霊の援助があるかどうか。

さらに
「発展する」という意味は、
一人の人間でありながら、やがては
1万人分の、一億人分の仕事ができること。
人は、それだけの大きな人生を生きることができる。
それは菩薩、如来への道。
多くの人々を指導する器である。

後世の人々に残すものがあり、
後世の人々を感化できる仕事かどうか。
これは菩薩や如来の最終的自己実現である。

翻って、
能力がありながら、成功できない人は、
守護霊指導霊への感謝の念が少なすぎる。
指導する存在があるのだから。
感謝の心は自分の中の光と呼応してくれる。

価値のある場所に、
価値のある人に、
人は集まる。
人が集まらないのは無価値だから。
儲からないのは、ひどい問題がある。
その存在に、需要がない。
社会評価が生ないのなら、
仕事の質に、問題がある。

自分を5年も10年も磨いている人には、
やがて光が当たりはじめる。








2017年10月12日木曜日

偶 々


  偶 々
諸戯絶てば ただ一本の 茜くさ
瞑(めつむ)れば 内なる眼の開く 花野なか
風葉(ふうえう)と 菓(このみ)に輪廻 知りたるか
菓(このみ)にも あまねく因縁(いんゑん) ありしとか
一文字に 千の理があり 穐獨空
顕れぬ 行果は穐の 實のひとつ
境と智を 泯ずるはよし 穐の空
ただ澄めり 弟橘媛の 穐のその










秘鍵


一ヶ月にわたって読んできた、
空海最晩年の著作「般若心経秘鍵」。
総括したい。

すべては比喩ではなく実在する前提で、
仏教を捉えることにしている。
そうして始めて理解できる。
信じることができる。

 一字に千理を含む。

と書くとき、
ひとつの文字の中に、1千の真理が含まれている、
とわたくしは受け入れる。
字の意味と、その意味に真理のはるかな深みがあると。
漢字ひとつひとつを侮ってはいけない。
宇宙にあまねくある理が隠れている。
 
 一字一文法界に遍じ、
 
の法界とは、全宇宙、真如のことだ。
差別のある現象界の事法界、
宇宙のありようすべて真如であるとする理法界、
現象界と実在とは一体不二であるとする理事無礙法界、
現象界が一と多との無尽な縁起の関係にあるとする事事無礙法界、
にあまねく存在する法則を含んというのだ。
それらは過去生、現在生、未来生を貫く。
だから、次の、心経のはたらきを受けよ、と空海は言う。

 真言は不思議なり。
 真実にして虚ならず。
 観誦すれば、無明を除く。 
 能く一切の苦を除く。
 即身に法如を証す。
 行行として円寂に至り、
 去去として原初に入る。

誦ぜよ。
書写せよ。
一文字一句をよく哲学せよ。
やがては密教眼(みっきょうげん)が育ち、
深旨が理解できるはずだ。
仏陀の聲と文字が其処にはある。
心経の一文字一文によって、
無知から解放され、即身の儘、
宇宙の法則にいたることができるのだから。
一文字の中の真如を掴め、と。

それにしても、
空海の言語の切れ味、
現代に失われた語彙力に、感嘆する。
朗誦に値する。











2017年10月11日水曜日

井筒俊彦

ユリノキ黄葉
「朦朧体」写真について、
哲学者井筒俊彦の、
論考「コスモスとアンチコスモス ・事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」に、
視点の根拠を見出すことができたと書いたら、
それは実際おこがましいのだが、
ひとつの存在する理由として挙げるのもよい。

もともとは空海の「般若心経秘鍵」の中に、
華厳経の「事事無礙法界」の意味を調べているうちに、
いもづるって、
わき道にそれたからなのだが。

仏教哲学の、「事事無礙法界」は、
現象界の一切の事象が互いに作用し合い、
融即していることをいうそうだ。
法界とは真理の境地をいうそうだ。

いもづるってさらに、
融即とは、融即律かもしれぬ。
別個のものを区別せず同一化して結合してしまう心性の原理。
仏蘭西のレヴィ=ブリュル(Lucien Levy-Bruhl)の言葉だ。

井筒俊彦の「華厳経」について語る部分に、
共鳴した。
東洋哲学と東洋美術、
特に山水画の気韻と呼ぶものは、
わたくしの「朦朧写真」と、関連しているように思う。
老荘ーーー山水ーーー山水思想ーーー仏教と、
東洋を円環する何かの気配を。

 事物を事物として成立させる、
 相互間の境界線あるいは限界線--存在の「畛」(へだて、境界)的枠組み--を
 取りはずして事物を見るということを、
 古来、東洋の哲人たちは知っていた。
 東洋的思惟形態の一つの重要な特徴だ。

 「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
 ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、
 あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
 ということは、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
 限りなく細分されていた存在の差別相が、
 一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
 この境位が真に覚知された時、
 禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ。

井筒俊彦は、イスラム教の「アッラー」とは
仏教でいう「真如」と同じだと考えていたそうだ。











2017年10月6日金曜日

無私


ドイツ語のルドルフ・シュタイナー全集が、無償で読める。
オンラインで開放している。

ルドルフ・シュタイナーが、1902年12月23日に、
ベルリンで行った講演のさりげないくだりが
シュタイナーのもっとも宗教的な、
宗教の普遍的な内容であることに、驚いている。

「秘密結社の基礎をなす外展と内展」という講演で、
「神殿伝説と黄金伝説-----人間進化の過去と未来の秘密の象徴的表現」
という書に含まれているものだ。
輪廻転生する人間存在へ、
明確な肯定のうえに語りかけている。

 すべての仕事が、
 自分の生活費のためにあるかぎり、
 仕事が生計を立てるための手段であるかぎり、
 霊的所有は、その分だけ、いやおうなしに、失われる。
 それに対して、
 客観的なもの、ほかの存在と結び付けられたものは、
 すべて、未来のわたしたちの意識を発展させる。

 無私の働き------。
 すべての神秘学は、
 自分を除外して、
 無私の態度で、行動しなければならない。
 なぜなら、
 無私の行為こそ、「不死性」の基礎だから。
 さらに、自分の関与を秘密にすることも。

  あなたが世界にささげただけのものだけを、
  世界は、あなたの意識のために、報いる。

 という法則がある。

無私に達したひとびとは、
「第六根幹人類期」に移行していくそうだ。









2017年10月3日火曜日

偶 々

偶 々
百合といふ 受肉に惑ふ 六芒形
穐の日の 石の黙(つぐ)める 冷たさよ
百合は落つ 内なる水の 腐すれば
腐したる 百合の花弁の 落下かな
百合の落つ 音の重たき 夕暮かな
水星の 戯れに揺る 楡黄葉
天地(あめつち)を 結ふ八芒形の 穐櫻










2017年10月2日月曜日

ノヴァーリス

sage
天界の住民の思想や芸術だけを研究せよ。
天界を地上へ降ろすつもりなら。
そんな聲が最近聞こえてくるようだ。
わたくしのこの歳での、
宗教への目覚めであるけれど、
秋が顕ちて、一段と強くなっている衝動だ。

人智学の祖、ルドルフ・シュタイナーの霊学に再び出会っている。
そうだ。
20歳台の多くの時間を費やしながら、
新聞社で限りない抵抗に遭い、
外的には露ほども、果を生まなかった霊学だ。
そう感じるのは、
「霊学」と規定さざるを得なかった訳者高橋巌の所為だ。
20年を経て再び、高橋巌訳を読むが、
かつては巨人だった高橋巌はしかし、
唯物論者あるいは唯物論の檻を抜けることができなかった美学者。
霊学とはいえ、
彼岸の生を真実とする宗教であるはずを、
むしろ宗教であったなら、
どれほど人を救い、
安心させることができたか。
高橋巌は霊学の本来の目的を知りつつも、
特異な語学力を武器に、
霊学の最終的な目的地を、
隠した。
それは罪、だ。
神秘主義者というレッテルを恐れたな、と。

「シュタイナーコレクション7---芸術の贈りもの」(2004)を読んでいる。
このなかから、わたくしは、
わたくしの人智学的自然写真の根拠を見つけねばならぬ。
わたくしは「シュタイナー衝動」によって視界、視力が明瞭に変化している。
エーテル、アストラルを見る視力が、開発されてしまっている。
それは霊学の書物とそれをめぐる人々との間の活動に、浸ったからだった。
なぜかくも変化しているか、
人智学の書物の中に、いまさらでも探索を開始する。
それでわたくしもわたくしの外の人々を
納得させるためでもある。

まずは、
1921年にドルナッハでの講演録「芸術心理学」で、
ロマン派詩人、
Georg Philipp Friedrich von Hardenbergつまりはノヴァーリスを、美しく語っている。
シュタイナーより100年前の詩人のことだ。
シュタイナーは霊視する。

 ノヴァーリスに「詩的であるとはどういうことか」と問いかけました。
 沈潜すると、ノヴァーリスは、霊界からやってきて、
 日常の散文的な生活を、詩的な輝きで包み込もうとしているようなのでした。
 霊的魂的なものが、空間と時間を包み込んでしまうのでした。

 ある深い根源的な要素が響いてきます。
 この世で、詩の音楽性を、あの故郷から、取り出したのでした。
 音楽的なるものの故郷から離れて、
 音楽的なものを、詩的なものの中に取り込んだのです。
 魔術的観念論によって、
 時間と空間を融合し、
 散文的な現実に巻き込まれずに、
 ふたたび音楽の霊の中に入っていったのです。
 彼は、音楽と詩を深く身につけて、
 29歳でふたたび、音楽の故郷へと帰っていきました。

 音楽家が地上に音を響かせる前に
 音楽の本質そのものが、
 音楽家の本質をとらえ、
 音楽の働きを人間のうちに組み入れたのです。

 ですから
 音楽家は、宇宙のハーモニーが
 音楽家の魂の奥底に、
 意識されることなく、植えつけられていたものを
 音楽として、発表するのです。










2017年10月1日日曜日

那由多


東大寺法華堂。
日本で最初に「華厳経」が読まれた場所だ。
華厳経は彼岸の光を映した経典。
だから、「光への向き合う方法」として読むことだ。
その方法を「海印三昧」と呼ぶそうだ。
海は連綿とした縁だ。

すべての存在は、阿頼耶識から生まれる。
すべての生命には、本覚真心が備わる。
自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)。
仏性。
如来蔵。
これらの意味は、
すべての人間には、
普遍的な真理を
理解できる能力が備わっている。
ということなのだ。

翻って、華厳経「如来光明覚品」。
如来の智慧とは光だ。
あまねく一切を照らす光だ。
如来は、眉間の白毫から、
無量億、那由多、阿僧祇の、光を放つ。
光は、
あまねく十万一切の世界を照らす。
右に回ること十度して、
如来の量なき自在を顕現する。
幾万の菩薩を覚醒させて、
一切の魔属を覆い、
究境を荘厳し、
徹底的に、浄化する。
光に包まれた人間は、即座に悟る。
瞬く間に悟りが開かれる。
彼岸では、心身の病は消散する。