2017年12月27日水曜日

神 曲

阿蘭陀独活

彼岸を、
生きている間にこそ、思い出さねばならない。
思い出して、自分の業を知り、なすべきことをなし、
消すものは消し、死ぬべきだ。

思い出すすべは、この書にもある。
ダンテ・アリギエーリ「神曲」百歌を意訳した、
谷口江里也の「神曲」(1989)。
中でも「天国篇」は、
よい響きを持つ言葉であふれ、
全篇朗誦すべきと思う。
もちろん詩人としてのダンテ・アリギエーリの本質とは、違うかもしれない。
それでもだ。
密かに声に出して読む。

 どのように在るか、ということが、すべてなのです。
 わたしたちは、ここで、光る、のです。 

 ああ光が、よき魂たちが、こんなにもたくさん居たのだ。

幾つもの詩句がわたしを捉え、離さない。
加えて、
ポール・ギュスターヴ・ドレの銅版画が、
圧倒的な勢いで、
わたしに、改心を迫る。
天国篇というクライマックスが、
改心を迫る。

口語の名訳として知られる平川祐弘訳の結語は、

 太陽やもろもろの星を動かす愛であった。

だった。
谷口は次の言葉で締めた。

 わたしは、光の中にいた。












2017年12月25日月曜日

ding(もの)


文芸がひとの意識の進化のためにあるならば、
四大元素へのあこがれは、
季感表現を目的としている俳句の担う、
本質な一面かもしれない。
ding(もの)というドイツ語の概念があるそうだ。

箱根にはいま、オシリス神のエネルギーが降りているのだけれど、
山上へのあこがれとともに、
「ハトホルの書」(2006)に記されているシリウス衝動を、
形而上学として読んでいるが、
高次の気づきに至るための礎として、
「均衡のピラミッド」と呼ぶ、四つの要素があるらしい。

四つの底辺のひとつに挙げられていたのが、
土、水、火、気の四元素だそうだ。
大気、大地、水、火それぞれに、意識がある。
「聖なる四元素」とも呼ばれ、
その意識の存在たちと、感謝に基づく関係を築いていき、
創造のエネルギーへの理解が、ひとびとの意識の進化を助ける。

季感表現は、俳句の使命ではあるが、
季感という言葉に隠れているのは宗教感情だけれども
決して、原始的などという幼稚な表現は適さない。
人間存在の根源にかかわる大切なもの、
ding(もの)であった。

16世紀の医師・錬金術師パラケルススによる、
「ニンフ、シルフ、ピグミー、サラマンダー、その他の精霊についての書」は、
いたずらな書物ではない。
四大精霊は、地・水・風・火の四大元素の中に住まう、
目に見えない、それぞれを司る四種の霊だ。
パラケルススはそれらをding(もの)と呼んだのだ。

俳は、安易な身辺雑記ではなく、
ding(もの)へ、
四大精霊へ、
呼びかける文芸、ではないのか。
加えて、わたしたちの意識が精妙な層に、いたればいたるほど、
四大元素との接触が、力を受けとるようになる。
息づく意識としての自然は、
崇拝の対象なんだと、堂々としていればいい。

四大精霊へ、呼び掛ける文芸である。










2017年12月19日火曜日

臨済


臨済とは臨在か。
佐竹義篤創建の、城里の
臨済宗清音寺に、参禅する。
午前に3本。
即ち、香が盡きるまでの時間を、
三度座る。
素足で、窗を開け放てば、零下。
座りつつ、
幾つかの想念を練り、統一し、
世界へ、あるいはかの人へ、放つ。
思念に集中した3時間。
この集中、普段は、まったくありえない。
だとすれば、
思念の集中は、現実を作るちからが、ある。
確信した。


単純だった。
瞬間瞬間、毎日毎日、
何を体験したいのかを明確に、
首尾一貫して、
デザインする。
幸せをもたらすものを、探す。
上昇感、接続感、躍動感を得るものをだ。

光の周波数を呼び込み、
12のエネルギーセンターを開くこと。
それが光の柱。
12の進化する螺旋。

エネルギーを加速するなら、
朝昼晩に、右回りに33回転すること。
1日99回で、次元上昇が近づく。

意図。
呼吸。
光の柱。
身体回転。
たくさんの水を飲む。
大地とつながる。
地面に座る。

青写真、目的は、
近づくと、
興奮するのでわかる。
それで、目的と繋がる。











2017年12月16日土曜日

定義

窗から見下ろした楓
池澤夏樹が詩の定義、を書いている。
土曜日にひさしぶりに茨城大学図書館にゆき、
池澤夏樹の「池澤夏樹詩集成」(1996)を借りて読んだ。
そのあとがき。福永武彦の思い出も含めて。
大学図書館としては、
詩集が異様に充実している。
その理由は知っている。
半分は詩人星野徹の、蔵書だったものなのだ。
さて、定義とは、

 密度が高くて
 緻密で
 隙間なく構成されて
 響きがよくて
 美しい。

池澤夏樹の小説には、
そんなところもあるのではないか、とも思う。
特に書き出しは、詩のようだ。

詩を書くときには、
絶対に、
ミューズの加護が必要、だという。
瞬く間に、去ってゆくものでもある、という。












2017年12月14日木曜日

偶 々

月の夜に 清明(きよあきら)來ぬ 晴明(はれあきら)去ぬ
冴へ返る 高野へありよ とぶらへば
冬暁や 明星の法享く 吉備真備
陰陽頭(うらのかみ) 瘦せゆく冬の 靈(ひ)を纂む 
磐座は 冬の北斗の 聲(をと)が藏
御統(みすまる)へ 列石闢(ひら)く 冬至光
顯神明之憑談(かみがか)る  とりすたん和音と  銀くるす
春日顕(あ)る 十二螺旋の 柱より
半眼に 薄きひかりの 冬至哉














2017年12月2日土曜日

色彩論

弘道館梅林

写真で表現しているのは、
エーテル界かもしれない。
太古の神々による
まだ物質化していないはずの、
自然の、
受肉前の光の、
残像かもしれない。
水戸市の4階の事務所から見る、
西の夕景は、
ロマン派の風景画に似ている。

ルドルフ・シュタイナーの、
1929年のドルナッハでの講義「色彩論」を読む。
印象的な言葉を拾う。

 緑色を生むのは月の力。
 緑色からほかの色へ移るために日の力。

 植物の個々の色調をやや暗く描く。
 その上を白っぽい黄色の輝きで覆うこと。
 このとき風景画が表現できる。
 この感覚は、
 宇宙から地上へ輝きとなって注ぐもの、
 光り輝く宇宙を表現するために不可欠なものだ。
 宇宙を、
 風景の上に流れる輝き、
 として描かねばならない。
 これ以外に、植物の営みの秘密を、
 つまり、植物に覆われた自然の秘密を、
 絵画的に表現することはできない。
 輝きの性格を、そのうえに注ぐ。

 黄色は放射しようとする。
 黄色は霊のかがやきである。

 青で一面描くなら、
 超地上的世界を、地上界に引き入れる。
 青が一様にあるなら、神がそこに働いている。
 青は魂の輝きである。
 赤は生命の輝きである。

 黄色の中に霊的なものがある。
 黄色の中に霊的なものを見上げていた。
 その霊を地上にも持ちたいと臨んだ。
 チマブエのように、
 画面に黄金色の地をつくったとき、
 地上に霊のための居場所をつくった。
 そして天上的なものを現出させた。

 太古の神々の行為を
 緑の、植物界の、自然の中に見る。
 この世の色は、
 物質にむずびついていない
 神々の思いである。
 色彩は太古の創造のときに
 因縁として存在するようになった。

 色彩遠近法によって、
 絵画は霊的なものとの関係を得る。

 神々が事物を通して語るので、
 色彩がある。
 芸術の創造と享受がこれによって力を得る。

あとがきに、シュタイナーによるマントラが紹介されている。

 エーテルの海の輝く色
 その輝きのなかで光の精霊が
 人間の魂に霊性を生じさせた。
 今、暗い物質界の色の中で
 魂は光を求め
 神霊の世界へ到ろうと勤める。
 神霊が人間の魂を力つけるとき
 人間の魂は、
 宇宙エーテルの中に
 光の源を探し求める。

これらを反芻しながら、
風景に、植物に向かう。


 







2017年12月1日金曜日

蜀 星

事務所は楓の樹冠に在るやうな
信じることができるなら、
ぜひ星の力をひいてこい-----。
この言葉を受け、
金指正三「わが国における星の信仰について」(1942)を読む。
いまだ唯物論に毒されていない戦前の書。
神仏への崇敬が濃密だ。

奈良天智天皇のころ、
唐の天文博士が渡来して、
中臣鎌子に、「蜀星の秘法」を授けた。
中臣鎌子は、百済からの仏教受け入れに反対した一人だったが、しかし。

中臣鎌子は、毎月二度この秘法の祭礼を行い、
ついに位人臣を極め、封萬千戸に及んだ。
道鏡、吉備真備、藤原濱足が続いて修した。
修すれば、星はなんと、確かな力だったと推察する。

宮中の星祀りは、
「御燈」
「四方拝」
「蜀星祭」
「本命祭」
「北斗法」
「尊星王法」
古代バビロニアへとつながってゆく。

飯島虚心「葛飾北斎」によると、
葛飾北斎が浮世絵師として一家をなしたのは、
妙見信仰によるものらしい。
妙見とは北極星。
その妙見堂は、本所柳島法性寺にあったそうだ。

信じるとはいったいどんな行為をいうのか。
先の「蜀星の秘法」では、月二度、祭礼をした。
正倉院文書には、北辰菩薩への密教修法の一部として、
「七仏所説神咒経」を書写した記述があるそうだ。
本命祭では、延命経を供養して、
本星の符を帯すると、運が開ける。

明星をおがむと金持ちになる。
なんて俗諺も、信じる力があれば。
星は確かな力なのだ。
妙見菩薩を祀る
つくば市栗原の真言宗北斗寺の「星祭」は2月6日だ。